タリバン5
出典: Jinkawiki
1. 生成過程
1990年代に退陣に追い込まれた経験を持つパキスタンのブット首相は、軍情報部による批判と政界への裏工作によってもたらされた事実によって、退陣に追い込まれていたことを知っていた。そこで、ブット首相は再び政権の座に就くと、軍情報部の策略を防ぐために国内の治安と秩序を維持する内相に退役将軍であるナスルッラー・バーバルを起用した。ブット首相のねらいとしては、軍部ににらみをきかせることのできる元将軍のハーバルの力を借りて、各界に張り巡らされた情報網の解体を進めることと同時に、アフガン問題に対しては、デーオバンド学派の「イスラム神学者協会」を率いるファズール・ラーマンとの関係を強化する方針を決めた。ラーマンはこのイスラム神学者協会を、政治組織として位置づけ、連立政権であるブット体制に参画する意思を示した。これが、タリバーン誕生の伏線である。そうした中でパキスタンでは、石油パイプラインに国家の夢を託そうとしていた。しかし、この国家事業にはいくつかの障害があった。建設ルートを事実上支配しているアフガンの軍閥や地方勢力がパイプラインの建設工事を妨害する恐れが十分にあった。これにより、ブット政権の最大の課題は、パイプラインの建設ルートに含まれる、軍閥、盗賊、地方勢力が入り混じっているアフガン南西部の治安をいかにして速やかに回復するかということであった。実際軍事力を使ってでしか解決する方法はなかったが、この行為は侵略行為としてみなされ国際社会から批判されるのは明白であった。そこで、バーバル内相とラーマンが思いついたのは、イスラム神学生を装ったパキスタン軍の派遣でった。このタリバーンの若者たちは、アフガン難民キャンプ出身の孤児であった為、祖国の秩序を回復するという大義に疑問をさしはさむものはいないと、読んだのである。これには、表向きには神学生の自発的なイスラム運動であったが、裏側にはパキスタン軍による掃討作戦を展開するという政府の陰謀が働いている。それにより、今までは純粋な宗教集団であったタリバンがパキスタン軍兵士や様々な義勇兵が混じって武装集団が加わった。やがて武装集団の力が強まることでタリバンは、武装集団と化していくことになる。
2. 同時多発テロ(9.11)
武装集団のなかに、この同時多発テロの首謀者とされるウサマ・ビンラーディンもやがてタリバンに紛れ込むこととなる。やがて、タリバン軍は勢力を強めていき、アフガニスタンの領土内では、北部軍とタリバン軍による戦闘が続いていた。タリバン軍が支配している地域に住む住民たちはテレビを見ることもラジオを聞くことも許されなかったため、いくつかのテロを海外で起こしている、サウジアラビア出身のビンラーディンがアフガン国内にいることも知らなかった。そのビンラーディンはパソコンを数台所有していたため、国際情勢を知ることのできる数少ないうちの一人であったと考えられる。アメリカ側から見て首謀者とされるビンラーディンを中心に2001年9月11日、アメリカの4機の航空機をハイジャック、そのうちの2機が国際貿易センタービルに突っ込み飛行機に乗っていた乗客・乗組員は全員死亡、死者は3000人以上をだすというい未曾有のテロが起こってしまったのである。
3. タリバン崩壊へ
この事件からすぐ、アメリカのブッシュ大統領は首謀者ビンラーディンをかくまっているタリバンに対し、身柄を引き渡さなければ武力行為に踏み切る方針を明らかにした。しかし、これまでのタリバンの対応から要求に応じることはないとみて、英国もふくむアフガンに対するアフガン空爆を行った。この時に投じられた爆弾の量は、一万トンともいわれ他タリバンはこの空爆により制空権を失った。またこの戦闘は長く続くと見込まれていたが、北部軍に対して武器や爆弾の援助を行っただけで、北部軍は息を吹き返し次々と年を奪還。空爆開始から2か月が経過した12月7日、タリバンはカンダバールを明け渡したことにより、タリバン政権の崩壊を見ることになった。また、米英側の犠牲者の数は数十名に対し、民間人の死者の数は3000人以上にのぼっているともいわれている。
4. 参考文献 渡辺 光一 2002 アフガニスタン・戦乱の現代史 岩波新書
マーティン・ユアンズ著 2002 アフガニスタンの歴史 明石書店