チェチェンの歴史

出典: Jinkawiki

目次

概要

チェチェン共和国(チェチェンきょうわこく)は、北カフカース地方の北東部に位置するロシア連邦北カフカース連邦管区に属する共和国。設立は1991年で首都はグロズヌイ。北カフカースの先住民族のひとつのチェチェン人が住民の多数を占める。 チェチェン共和国はロシアの憲法上ではロシア連邦を構成する連邦構成主体のひとつである。しかしソビエト連邦解体後、ロシア連邦政府及びロシア連邦への残留を主張するチェチェン人勢力と、チェチェン・イチケリア共和国やカフカース首長国を自称するチェチェンの独立を求める武装勢力との間で対立が続き、2度のチェチェン紛争と独立派のテロリズムがたびたび発生している。

歴史

チェチェン人の起源

チェチェン人は、明らかにカフカス最古の民族のひとつである。これは、多数の考古学的研究によって証明されているところである。 カフカス山地の地峡地帯に存在してきた諸文明は、その起源を古代エジプトにまで遡ることができる。カフカス山脈地帯は民族大移動のときに ここを通過していった多数の部族の避難所となった。この時代に関して、チェチェン語で書かれた史料はのこっていない。そういうものがあれば、ちょうどロシア人の場合の ネストルの年代記のように、チェチェン人の年代史が残るようになっただろう。チェチェン人あるいは彼らが属するより広範囲の民族であるヴァイナフの足跡を再び見出すためには、 民間伝承、あるいは他国や他民族の歴史的資料によらなければならない。民間に伝わるある伝説によれば、チェチェン人の先祖はシリア(シャーム)から出たという。彼らは古代に、 ナヒチ・ヴァン(現在のアゼルバイジャンのナヒチェヴァン自治共和国)に住み着いた。そしてそこから、アブハシアを通って、カバルダに入り込んだ。ほかに、チェチェン人を 中東起源(現在のイラク)とする伝承もある。

前ロシア時代(1816年まで)

最初のチェチェンの反抗は1785年に起こった。歴史上、長老マンスールの名で知られるアルドゥイ村出身の農民ウシュルマがその指導者だた。反乱の初期、マンスールは16歳から25歳のあいだだったに違いないとされている。彼は、北カフスカ史上最初の宗教戦争を呼び掛けた。 ロシアのような強大な敵を向こうにまわしては、たとえチェチェン人のように強力で闘争心が強くても、一山岳民族も糾合すべく、彼が選んだのが、宗教的基盤であった。というのも、イスラム教のほかに共通する要素はなかったからである。反乱は、ダゲスタン北部、カバルダ、 そしてチェルケスへと急速に広まっていった。1785年7月12日、最初の戦いが、ロシア軍とマンスール率いる反乱軍との間に行われた。兵士、士官をあわせ3000名を超すロシアの分遺隊が、この戦闘でほぼ750名を失った。この戦果に勢いを得たマンスールは、1785年の間に、キズリャル(ダゲスタン北部) とグリゴロポリスにあった洋館に要塞に繰り返し攻撃をしかけた。これらはいずれも失敗に終わっている。反抗の第2段階は、ロシア女帝エカチェリナ2世がトルコに対して宣誓を布告した1789年9月9日に始まった。当時、北カフスカ山地西部のいチェルケスに居を構えていたシャイフ・マンスールの動きを阻むため、 ロシア軍は8000人の兵士と35門の大砲を向けてきた。一連の戦闘の後、シャイフはやむなく退却した。戦場に一番近い村と、彼の住んでいた家が、ツァーリの軍隊に焼き払われてしまったからである。
1790年夏、シャイフ・マンスールはチェチェンに戻り、キズリャルに新たな攻勢をかけるべく、動員を呼び掛けた。だが、チェチェン人たちは動こうとはしなかった。1790年の秋、マンスールは黒海沿岸トルコ領アナパの要塞に難を逃れることを余儀なくされた。シャイフは、ロシアの支配を覆そうと 山岳諸民族に訴え続けた。1791年6月、彼は対トルコ戦争でアナパを占領したロシアの将軍グドヴィチによってとらえられ、終身刑に処せられて、1794年4月、シュリッセルブルグ要塞で獄死した。

大カフカス戦争(1816~64年)

16世紀末頃から東のダゲスタンよりイスラム教(イスラーム)が流入し、次第に広まっていった。 一方、同じ頃にモスクワ大公国を中心に政治的統一を進め、国家形成を行っていたロシアは、17世紀末までに全シベリアを併合し、18世紀には南下を開始、バルト海沿岸、黒海沿岸、カザフ草原、マンチュリア(満州)東北部の沿海州)などを次々に併合した。 同世紀には、クリミア・ハン国とその宗主国であるオスマン帝国の勢力下にあった北西カフカスへの侵攻を開始し、チェルケス人の一派であるカバルダ人を勢力下に取り込み始めた。同世紀末にはカフカス支配の拠点として北カフカス中央部のテレク川の河畔にウラジカフカス(現北オセチア共和国)を建設、テレク川以東に住むイングーシ人、チェチェン人の征服を進めた。このように、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、ロシア帝国によって起こされたカフカスの支配を巡る諸戦争をカフカス戦争と呼ぶ。

帝政時代(1864~1917年)

戦争はなお数年間続いたが、それは組織的な抵抗というより、自然発生的な反抗にすぎない。最終的に、ツァーリは、チェチェン人に対して、土地の所有に関するいくつかの「自由」を認めるという譲歩を行った。宗教的、地域的規範に基づくチェチェンの伝統的な法廷が認められた。しかしロシア行政はあいかわらず、チェチェン人たちを戦争捕虜とみなし、山岳住民の居住地域制度を作ったが、これは一種の居留地、「異民族」もためのものだった。山岳住民は、ロシア軍当局の許可なしには村を出る権利もなかった。 また町や「スタニツァ」(コサックの入植地)に滞在することも、そこに家を買うこともできないのだった。チェチェン人は、1917年までいっさいのロシア化を避け、イスラム信仰を守って、暮らしていた。

ソビエト連邦時代

1917年にロシア革命が起こり、内戦に勝利したボリシェヴィキ(ロシア共産党)がソビエト連邦を建設すると、ソ連は指導者ウラジーミル・レーニンの民族自治の方針に従って、1924年にチェチェン自治州、イングーシ自治州を設置、1934年には合併してチェチェン・イングーシ自治州となり、1936年にチェチェン・イングーシ自治共和国に昇格した。その後、政権を握ったヨシフ・スターリンは、民族共和国による連邦制を前提とするレーニン主義にかわって、民族自治共和国を中央政府の集権的コントロール下におこうとするスターリン主義をとったので、民族自治の実態はほとんどみられなかった。 スターリン、ミコヤン、オルジョニキーゼを始め多くの共産党幹部がカフカス人であるにも関わらず、チェチェン人はロシアへの併合以来抵抗を繰り返してきた歴史から、スターリン体制にとって危険視される向きもあった。1937年にはチェチェン・イングーシ自治共和国でも大規模な粛清が行われ、多くの殺戮が行われた。 第二次世界大戦中の1942年にはソ連へと侵攻してきたナチス・ドイツ軍の一部が北西カフカスに達するが、スターリン政権はチェチェン人を含む反ロシア的な民族がドイツ軍と結んで反抗することを恐れた。ドイツ軍撃退後の1944年2月、スターリンはチェチェン人とイングーシ人に対独協力の疑いをかけ、そのほとんどはドイツ軍とは無関係であったにもかかわらず、全チェチェン人とイングーシ人50万人を中央アジアやシベリアに追放した。多くのチェチェン人とイングーシ人が追放中の劣悪な環境のために命を落としたといわれ、一説には全体の4分の3が犠牲になったといわれる。 1946年、チェチェン・イングーシ自治共和国は廃止され、ウラジカフカスを含む領土の大半は北オセチア自治共和国に割譲される。 1953年にスターリンが死去すると、ニキータ・フルシチョフが政権を獲得し、1956年にはスターリン批判を開始した。スターリンの行ったチェチェン人とイングーシ人の民族追放も批判の対象となり、1957年、両民族は対独協力の疑いを破棄されて名誉を回復され、チェチニヤへの帰還と、チェチェン・イングーシ自治共和国の再建を認められた。 しかし、ウラジカフカスを含む西部は北オセチアから返還されなかった。また、石油産業の利益が地元に還元されず、中央政府に吸い上げられていたのも不満のもとであった。さらに、10年以上に及ぶ追放の最中にチェチニヤにはオセット人やロシア人が大挙して入植していたため、土地を巡る深刻な対立と紛争が起こるなど、問題の根本的な解決ははたされなかった。

ソビエト連邦解体・チェチェン独立

1985年にソビエト共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフはソビエト連邦の政治体制の改革「ペレストロイカ」に着手した。ゴルバチョフは、従来のソビエト連邦を一旦解体し、「主権ソビエト共和国連邦」として再生させようと法整備を進め、また新連邦に加入しない共和国に向けて「ソビエト連邦離脱法」を法制化した。 ロシアを始めチェチェンを含む15構成共和国は1990年2月5日に採択された「ソ連共産党政治綱領」に基づき相次いで主権独立宣言を行った。チェチェンでは11月23日に全チェチェン協議会がグロズヌイで開催され、チェチェン人全民族の代議員が出席した。11月27日には「ソビエト連邦からの独立及びチェチェン人の主権宣言」が全会一致で批准。翌年6月、ジョハル・ドゥダエフ将軍らの全チェチェン協議会はクーデターにより共産党政権を打倒し政権を奪取。以来、チェチェンは事実上の独立状態となる。 1991年8月20日にゴルバチョフは主権ソビエト連邦条約を調印する予定であったが、その前日ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領ら保守派による反改革クーデターにより拘束される。クーデターはロシア共和国大統領のボリス・エリツィンによって失敗し、ゴルバチョフは解放されたもののその求心力を失い8月24日にソ連共産党書記長を辞任、中央委員会に自主解散を求め、ソ連共産党の資産を凍結させた。

ソビエト連邦離脱法によるチェチェン独立宣言

チェチェンでは情勢の推移を受けて「ソビエト連邦離脱法」に基づきソ連からの連邦離脱を問う全国民投票を10月27日、憲法の規定を満たし実施した。独立チェチェン共和国(チェチェン・イチケリア共和国)の初代大統領としてドゥダエフ将軍が選出された(大統領候補者3名中の得票率は84%、イングーシ人はボイコットした)。国民投票の結果、離脱要件を満たす得票が得られ11月にドゥダエフ将軍は1990年4月10日の法律と「連邦離脱法」に基づきソ連邦からの離脱を宣言した。この宣言は合法であったが、エリツィンは11月8日に「チェチェン・イングーシ共和国の非常事態宣言」を声明、チェチェンに連邦軍を投入した。11月9日、ロシア内務省軍約1千名が輸送機9機でグロズヌイ飛行場に到着し、チェチェン側は包囲する。同日ドゥダエフ将軍が大統領に就任し地元テレビで自由を守るために国民の結束を求めた。11月10日にロシア内務省軍は飛行機を没収されたためバスで撤退する。ロシア共和国最高会議は翌11日、政治的手段が必要として非常事態宣言を不承認とする決議を行った。ドゥダエフは「ロシアとの交渉を始めたいが、我々の声を聞く力がない」との談話を行う。アゼルバイジャン人民戦線はチェチェンの連邦離脱支持を表明し、ロシア政府首脳に承認を要求する。11月12日にエリツィンは最高会議の不承認決議に同意し非常事態宣言を解除する。 最高会議はチェチェン・イングーシ問題特別委員会の設置を決定した。

第一次チェチェン紛争

1994年12月、チェチェンの分離独立を阻止するためにロシア軍が軍事介入、第一次チェチェン紛争に突入する。エリツィンは「憲法秩序の回復」のためチェチェンへの侵攻を開始したと主張した。翌年にはロシア軍が首都のグロズヌイを制圧。ロシア軍が広域に渡って支配権を回復したことで、エリツィンは一方的に休戦を宣言し、軍の撤退を始めた。 1996年4月21日、ドゥダエフ大統領がロシア軍のミサイル攻撃で戦死する。5月に入ると後継のゼリムハン・ヤンダルビエフ大統領代行らがエリツィンと停戦交渉を行い、7月一杯までの短期停戦が実現する。8月にはチェチェン軍がグロズヌイを奪還、同月末に独立派のアスラン・マスハドフ参謀総長がロシア連邦のアレクサンドル・レベジ安全保障会議書記と停戦に合意する。(ハサブユルト和平合意)その内容はチェチェンの独立を5年間凍結し、国家としての地位は2001年に再度検討するというものであった。 10月になるとロシア連邦ではイワン・ルイプキンが安全保障会議書記及びチェチェン共和国担当ロシア連邦大統領全権代表に就任する。1997年1月にロシア軍は完全撤兵。この紛争で一般市民は約10万人が死亡し、およそ22万人の難民が隣接する三共和国に流出することとなった。 1997年1月28日に大統領選挙が実施され、マスハドフが大統領に選出された。この選挙には日本のNGO、市民平和基金も選挙監視員を派遣している。5月12日にマスハドフ大統領とエリツィン大統領の間で「平和と相互関係に関する条約」が締結される。この条約によって両国間の400年に及ぶ戦争の終結が宣言された。

第二次チェチェン紛争

1999年10月1日にロシア地上部隊がチェチェン侵攻を開始する。ウラジーミル・プーチンロシア連邦首相はマスハドフ政権の合法性を認めず、チェチェンの分離独立派排除を試みる。マスハドフは10月5日に全土に戒厳令を発布する。二ヶ月後の12月4日にはロシア軍がグロズヌイを完全包囲したと発表。同月末の25日には本格的な制圧作戦を開始する。 2000年2月にはチェチェンの武装勢力がグロズヌイからの撤退を表明。この時点でロシア軍側の戦死者は1,500名以上に及んでいた。4月にメアリ・ロビンソン国連人権高等弁務官がチェチェンを訪問する。彼女は後に国連人権委員会でチェチェンでの人権侵害はロシア軍によるものとして非難した。欧州評議会議員総会では一時期ロシア代表の投票権が停止され、評議会からの追放も議題に上ることとなった。 後にエレーナ・ボンネルは「エリツィン大統領が自ら指名した後継者のプーチン現首相が世論調査で支持率を上げるために必要」として紛争を開始したとアメリカ上院議会で証言した。

現在

今もなお、さまざまなテロや爆破事件が起きている。 近年ロシア政府は、力でテロを封じ込める方針から、経済振興によって地域を安定させる方針へと政策をシフトさせている。新たに連邦管区を設置し、大統領全権代表には企業出身の人物を就任させ、中央直轄で経済の底上げを計ろうとしている。

参考文献

チェチェン 2005年 訳者 萩谷良 発行者 川村雅之 白水社
  チェチェンの呪縛 2005年 著者 横村出 岩波書店
チェチェン共和国 http://ja.wikipedia.org/wiki/
チェチェンの歴史 http://ja.wikipedia.org/wiki/
チェチェン総合情報 http://chechennews.org/
チェチェンやめられない戦争 http://www.book-navi.com/book/syoseki/chechen.html

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