ツタンカーメン
出典: Jinkawiki
ツタンカーメン
生まれについては、はっきりしておらず、アメンホテプ3世の子、スメンクカーラーの子と諸説あるが、アメンホテプ4世(アクエンアテン)と側室キヤの間の子という説が有力である。アクエンアテンの生存中、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(Tutankhaten、「アトンの生ける似姿」の意)と名乗っていた。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアモン=ラーの信仰を復活させ、トゥトアンクアメン(「アモン神の生ける似姿」の意)と改名した。また、首都をアマルナからテーベに戻した。在位中、王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる(但し、アイは王族の一人)。ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされている。2005年1月に、ミイラの調査が行われた。
王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月26日にイギリスのカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、発掘された。ツタンカーメンは王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けなかった(実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事だった)、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。 その発掘は世界を大いに驚かせた。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたとされ、ファラオの呪いの伝説が広まっている。だが、死亡した発掘関係者の多くは高齢者で、実際に不遇に死んだ関係者は少数であり、更にその多くがこじつけといえるようなものであった。呪いの話はロンドン・タイムズに報道を独占させたカーナヴォン卿に恨みを抱いたか、人々の好奇心をあおりたかったマスコミの喧伝に過ぎないとされている。 また、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから暗殺説を裏付けるものと注目されたが、いくつかの傷は20世紀前半当時のミイラを文化財として大事にしない風潮のために発掘時につけられたものであったことが明らかになっている。 ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品はエジプトに残された。そして、黄金のマスクや純金製の第3人型棺をはじめとする副葬品の大半は現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に公開されている。 またツタンカーメンの墓には出産直後か死産かと見られる二体の子供のミイラも一緒に葬られており、これはツタンカーメンの子供だと考えられている。その他、ツタンカーメンの墓からはエンドウ豆も発見されている。三千年の年を経て発芽させる事が出来たとされるが、豆の種子がそれほどの長期間、生存することは植物学上考えにくく、また、豆自体もエジプトで自生している野生種であり、「直系の種」と言われても判別はつかない。現在多く出回り、販売もされている”ツタンカーメン”のエンドウ豆については、半ば宣伝文句と思ったほうがよい。なお、ツタンカーメン王墓が発掘された際に出土したもののリストの中に「エンドウ豆」という項目は存在しない。死後の備えとして入れられた食物の中に穀物の入った壷があり、その中に豆類が混じっていた。
参考文献:ハワード・カーター『ツタンカーメン発掘記』