ナイチンゲール
出典: Jinkawiki
フロレンス・ナイチンゲールは看護婦の代名詞である。1820年5月12日に誕生し1910年8月13日に亡くなった。イギリスの看護婦で、クリミア戦争で名を上げ傷病者を看取る”クリミアの天使”や”看護の母”などと呼ばれることもある。また彼女の誕生日である5月12日は、『国際看護師の日』になっている。
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年表
1820年5月12日 誕生
1837年9月の初め 大陸旅行へ
1844年春 病人の看護をしたいと思う
1845年 ソールズベリーの病院で看護婦をしたいと申し出、家族の大反対にあい断念
1849年 リチャード=モンクトン=ミルクンズの求婚を断る
1853年8月 ロンドン、ハーレー街の『婦人家庭教師のための養成所』の看護監督に就任
1854年10月21日 38人の看護婦とともにクリミア戦争従軍のためロンドンを出発
11月5日 スクタリの兵舎病院に着く
1855年5月 最初のクリミア半島行き。熱病にかかる
10月 2度目のクリミア半島行き
1856年3月 3度目のクリミア半島行き。終戦を迎える
8月 帰国
1857年8月 過労で倒れ鉱泉の地モールバーンで保養
英国統計学会会員に選ばれる
1860年7月 聖トマス病院にナイチンゲール看護婦訓練学校を開く
1861年 キングス・カレッジ病院にナイチンゲール助産婦訓練学校を開く
1867年 産褥熱発生のためナイチンゲール助産婦訓練学校を閉鎖する
1874年1月 父を亡くす
1880年2月 母を亡くす
1883年 赤十字勲章を受ける
1886年 看護婦登録制度に反対して戦いはじめる
1887年 ヴィクトリア女王即位五十年記念の地区看護婦協会設立を助成
1901年 視力を失う
1907年 女性初の有功勲章(O.M.)を授与される
1908年 ロンドン名誉市民権を授与される
1910年8月13日 睡眠中に没
生い立ち(少女時代)
フロレンスは、幼い頃から機知に富んだリーダーぶりを発揮し、姉だけでなく他の子供達とも著しく違っていた。フロレンスは6、7歳にしてあるごとに手紙を書くようになった。小旅行先から祖母に、両親や姉と別行動の時は彼らに、あるいはいとこや教父や叔母に宛てて。彼女は子供の頃からメモの類もよく書いた。そして、終生"書き魔"だった。彼女の手紙やメモは、彼女自身が何でも整理して保存する性格だったことを現す。何事にも観察が確かなのである。ある程度の暮らしをしている家の子供は自宅で教育を受けた。ナイチンゲール家の教師は父ウィリアムであった。フロレンスは、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、歴史、哲学、数学などを父から学んだ。フロレンスは、人間が理想を求めてつくりだし、世代から世代へと学び継がれてきた哲学、芸術、科学を思う存分自分のものとすることができる力を持つに至った。フロレンスは数学を愛した。彼女には生まれつき倫理と秩序感覚があった。一方、母ファニイは、花の活けかた、もてなしの流儀、刺繍などを"教育"した。これは、フロレンスにとってとても苦痛だった。一家は、毎週日曜日にマーガレット教会に通っていた。そこで、身近な死に接した少女フロレンスは困っている人がいたらそこへ行って手助けをすることを、自分が何かの役に立つことを願った。フロレンスは少女時代の日々をいつも物思いに沈んで過ごしたというわけではない。しかし、彼女の少女時代をしめくくったのは、"神の声"だった。フロレンスには、神の声を聞き取る耳があったのである。
志
神の声を聞いて以来、自分は何をすべきかと考えたフロレンスは、近隣の貧しい農民を、見舞品を持って訪問する慈善活動を通して、何をなすべきかがわかったような気がした。それは、病人の看護だった。病人や赤ん坊に手を下してなんやかやと世話をしたが、それがいつも適切だった。また、看護は"する"こと、つまり行動だった。心を尽くしてキリストの合一を得るように努めよう、達成目標はそこにあるとひらめいたのである。
家族
フロレンスの両親は貴族ではなかったが、まぎれもなく上流階級だった。フロレンスが生まれたとき、父親のウィリアム=エドワード=ナイチンゲールは27歳、大叔父の遺産を受けた資産家で、ケンブリッジ大学に学んだ紳士だった。頭が良く、ユーモアに富み、並々ならぬ深さの教養の彼は、容姿にもすぐれていた。彼は歳上の才媛フランセス(ファニイ)=スミスに魅せられた。彼女は弟の友人でもある物静かな思索の人ウィリアムの心持ちに応じ、結婚した。ウィリアムとファニイのパーソナリティの相違は、著しいものであった。結婚して大陸旅行に出かけて2年目、ナポリで長女をもうけ、翌年フィレンツェで次女が誕生した。彼らは、ナポリで生まれた娘にはそのギリシア名パスィノープを、フィレンツェで生まれた娘にはその英語名のフロレンスをそれぞれ与えた。姉のパスィノープはパース、妹のフロレンスはフローと愛称で呼ばれ、姉妹は両親の愛情を一身に受けて少女時代を過ごした。幼い姉妹はそろって美しく、誰が見ても不足ない恵まれた環境で育っていた。
クリミア戦争(困難と成功)
ナイチンゲールの名には必ずクリミア戦争がついてまわるし、逆もまたそうである。彼女の成功は、長い長い準備の時間と並々ならない努力があってのことだ。英国とフランスがロシアに宣戦したのは1854年3月だった。クリミア戦争の始まりである。トルコにくみする連合軍は、セヴァストポリの北、アルマ川の流域で最初の戦闘を行い、辛くも勝ったが、おびただしい負傷者を出したうえ1000人余りの兵士が流行していたコレラに罹り、コレラはなおも広がる勢いをみせていた。この事態に対し、英国軍は供えのない軍隊のもろさを暴露するばかりであった。医療用の物資、寝具、傷病者を運ぶ手だてがなかった。コレラは激しい下痢を伴うので、水が十分に使えず衣服や寝具の換えがないとなると、そこを瞬く間に不潔が支配した。この傷病者たちは、スクタリの病院へ移送されたが、船のうえの状況はいっそうひどく、着いた先の病院がまた何もなく、大きな廃屋だった。フロレンス27歳、従軍記者の報告を受け、看護婦を集め出発しようと決意した。これは、看護ならびに看護婦の価値を、広く世間に認識させようという目論見があった。10月19日、フロレンスが正式に『トルコ領における英国陸軍病院の女性看護要員の総監督』に任命さた。1854年10月21日に、ロンドンを出発した。病院の医師たちはフロレンス一行を歓迎しなかった。彼らには、女に何ができるという気持ちがあったのだった。医師たちは看護婦に役にたってもらおうとは思わず、また一行が持ち込んだ物資も使おうとしなかったが、これに対してフロレンスは、彼らが要請するまでは一切手出しをしないように看護婦たちに申し渡した。そうすることによって、自分たち看護団は決して勝手な行動をとらず、秩序を乱さず、あくまでも医師の元で働くつもりであることを示そうとしたのである。この任務のいく末を思えば、看護団は医師たちおよび病院全体、さらには英国陸軍に信頼されなければならなかった。目の前に苦しむ病人がいるのに手を施さないのは、看護婦たちにとっていらただしいことだった。フロレンスには待つことのできる強さがあった。ただ、雑役兵の乱暴な食事づくりに関してだけは、すぐに手をつけた。そもそも料理する設備が大きな釜だけで、毎日それに湯を沸かして肉の塊をゆでるというのでは、弱っている病人の食べられるものではなかった。看護婦たちは、フロレンスの自費で持ってきた物資を使って、"患者の食べられる食事"づくりに励んだが、医師の指示がない患者に与えることはフロレンスが許さず、彼らは彼女を非難した。冬になり、兵士たちはさらに衰え果て、ついに医師たちがフロレンスに看護婦を出勤させるよう要請してきた。フロレンスだけが、事態を救うための知識、方策、それと自由に使うことのできる資金を持っていた。クリミア戦争では、兵士の妻や民間人が軍隊に同行して兵士の世話をしたり、商売をしたり、あるいは戦闘の様子を見物したりしていたのである。フロレンスは、200人の人夫を雇い、壊れて使えなかった場所を修復し、これ以上の患者を受け入れる体制のなかった病院に新たに500人の傷病者を向かい入れた。フロレンスは、食事を中断したり、時には抜いてまで働いていた。夜間にはランプを手に、患者一人一人に身をかがめながらベットの列に沿って歩いていた。兵士たちは彼女の存在によって自らを励ますことができ、身を律することもできた。最後は、看護婦一人一人の行く先や勤め先を確かめ、必要なものには手はずを整えてやり、送りだした。その際の、ただ1つの約束は、マスコミの取材を受けてはならないということ。看護婦も兵士も帰還しいなくなった兵舎病院で任務終了をかみしめた。
病気
1857年夏、フロレンスは虚脱発作を起こした。彼女は元来丈夫な体質ではなかった。クリミアでもクリミア熱の他に、頭痛、耳痛、歯痛、喉頭炎、関節炎などに絶えず悩まされ、常に消耗状態だった。今回は完全な失神をきたし、すぐ意識を取り戻したものの身体は動かなかった。紅茶以外は喉を通らず、不眠と激しい動悸が続いた。彼女は仕事のために健康を犠牲にした。病気はむしろ彼女にエネルギーをもたらしていた。彼女はホテルの自室から一歩も外へ出ずに仕事の指揮をとり、書き物をした。ほとんど死にかけていると見えたほど衰弱していた彼女が、ペンを握っていた。指揮棒は休むことなく振られ、その激しさに裏方を含む彼女の"チーム"から次々と犠牲者が出た。この時を境に、以後30年以上余りを病人として過ごすことになる。
終焉
フロレンス=ナイチンゲールは、1910年8月13日、静かに永遠の眠りについた。90年の長い生涯だった。最後の年に、女性として最初の有功勲章など、いくつもの栄誉の証が授けられたが、おぼろげな意識の彼女には、もうそれらを謝絶することはできなかった。聖マーガレット教会墓地に、父、母、それに姉のパースとともに眠る墓石がある。12世紀からの歴史のあるその小さな教会の窓辺の1つは、彼女のためのささやかな祭壇であり、"スクタリ-クロス"と呼ばれる弾丸の十字架が置かれている。これはクリミア戦争に行った兵士たちの作である。埋葬の日、彼女を送る人々で溢れかえった。ささやかな花束を手にしたごく普通の人々が見送る中、英国陸軍兵士6人の方に身を委ね、彼女は彼女らしく旅立つことができた。 『これ以上に有益かつ感動的な人生があっただろうか』(1910年8月15日付ニューヨークタイムズ)
著書
『カイゼルスヴェルドのディアスコ学園』1850年 『カサンドラ』1852年 『エジプトからの手紙』1854年 『英国陸軍の健康、能率および病院管理に影響を及ぼしている諸事項についての覚え書き』1857年 『女性による陸軍病院の看護』1858年 『病院覚え書き』1858年 『看護覚え書き』1859年 『思索への示唆』1860年 『インドの駐在陸軍の衛生・ナイチンゲールの私見』1862年 『インドにおける陸軍の衛生』1863年 『インドの人々が生きのびるには』1863年 『インドの病院における看護』1865年 『救貧院病院における看護』1867年 『アグネス・ジョーンズを偲んで』1868年 『産院覚え書き』1871年 『インドにおける生と死』1873年 『貧しい病人のための看護』1876年(タイムズ紙に発表) 『インドの人々』1878年 『看護婦の訓練と病人の看護』1882年(クウェイン内科学辞典) 『町や村での健康教育』1894年
参考文献
1)小玉香津子『ナイチンゲール』清水書院1999年 2)ヒュー・スモール著,田中京子訳『ナイチンゲール神話と真実』みすず書房2003年 3)ホカ イッペンリットン・ストレイチー著 ,橋口稔訳『ナイチンゲール伝』岩波書店1993年