ノアの箱舟
出典: Jinkawiki
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ノアの箱舟
旧約聖書の「創世記」6~9章で登場する大洪水にまつわるノアの箱舟の物語のことである。聖書上、神はアダムとイブを生み出したが人口が増加したことで人間は悪さをし始める。それを見かねた神は、酷く後悔し人間を滅ぼすことにしたが、神に忠実な「正しい人」であるノアとその家族また多種の動物たちだけは救うことにした。そこで神はノアにこれから大洪水が起こることを忠告し、箱舟を作らせたのである。 ノアは神のお告げに素直に従い賢明に働いた。また、大洪水が来ることを他の人々にも告げたが皆嘲笑い、耳を傾ける人はいなかった。数十年という長い年月が経ちようやく箱舟が完成すると、神に言われた通り本能で集まってきた動物たちのつがいをすべて箱舟に乗せ、妻と3人の息子夫婦の合計8人を乗せ箱舟の入り口を閉めたのである。 大洪水は40日40夜勢いを失うことなく続き、地上の生き物を滅ぼし尽くした。一切の生き物は滅びたがノアの家族だけが生き延びることが出来た。やがて水位が下がり始め様子を見るために一羽のカラスと鳩を放すことにした。カラスは帰ってこなかったが、鳩がオリーブの葉をくわえて戻ってきたことは陸離があるということを示した。7月と17日目に箱舟は陸地にたどり着いた。そこは、アルメニア地方にそびえる最高峰アララト山(トルコ共和国の東端にある標高5.165mの山)の頂きだった。ノアは水が引いたことを確かめ、ようやく地に足を踏み入れることができたのであった。そこでノアは祭壇を築いて焼き尽くす生贄を神に捧げた。その様子を見た神はノアたちを祝福し、地上の全ての肉なるものに対し、全ての生きとし生ける物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約し、その証として、空に虹をかけたというのだ。 ノアの箱舟は研究者の見解によれば西暦前2370年(紀元前3000年ころ)ではないかとされている。
箱舟の大きさ
「創世記」の記述によれば、方舟のサイズは「長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビト」つまり「長133.5m、幅22.2m、高13.3m」の大きさであるようだ。航行ではなく水面浮揚を目的として作られたため直方体に近い形」をしていたのではないかと考えられる。
学者、冒険家による発見
箱舟がたどり着いたと言われるアララト山は、標高5千メートルを越し、上部の3分の1は常に雪に覆われて過酷な自然環境にあると言われている。山頂部は、7個に分かれており氷河に閉ざされた氷だけの世界である。昔から、このアララト山の頂きには伝説のノアの箱舟があると信じられていた。だが、この山は、 聖域とされており、しかも政治的な問題もからみ、最近まで、侵入することさえ困難な場所だった。それでも、箱舟見たさに、禁を犯して、箱舟を探険したいという願望を持つ人間が後を絶たなかった。こうして19世紀半ばから箱舟探検家の活動が活発になってきた。 1892年には、ある教会の副司教は、ノアの箱舟を探しにアララト山頂に入った。そして、ついに巨大な船の遺物を発見したと報告した。その巨船は永遠の閉ざされた氷河の中にあった。彼は、目の前に広がる光景に圧倒され、聖書が真実であったと感動しながら述べている。彼は、その木片の一部を持ち帰り、修道院の至宝にしたと言われている。 20世紀に入ると、箱舟探険は黄金時代を迎えた。1916年には、ロシア人パイロットが、上空を飛行中にアララト山斜面に巨大な船の跡を発見したと報告している。当時のロシア皇帝は、ただちに探検隊を派遣し、調査の結果、それは箱舟だと言う結論に達した。しかし、不幸にも翌年起こったロシア革命によって報告書は消失してしまった。 1953年には、ヘリコプターのアメリカ人パイロットが、アララト山の斜面に巨大な箱舟の跡を発見し、30メートル上空から鮮明な写真を撮っている。 1956年には、フランスの探検隊が、アララト山の氷河と氷湖の間で、巨大なL字型の船の竜骨を発掘した。 1969年には、今度はアメリカの探険隊が、氷河の中からその一部を持ち帰ることに成功した。専門家が炭素による年代測定を行ったところ、紀元前3千年頃の木材であり、化石化していたことが判明した。 その後も懸命に探検を続け何も見つからず虚しく終わることもあれば、ノアの箱舟の一部と思われるものを見つけることもあった。 大洪水にまつわる伝話や神話はノアの箱舟だけではなく、「ギルガメシュ叙事詩」などと多数あり、本当に過去に大洪水が起きていたのではないかと主張する研修者も多い。もしこれが事実となれば我々の認識に大きな衝撃を与えることとなるが、事実はよくわかっていない。
参考文献
・ウィキペディア(ノアの方舟) [1]
・不思議館~古代の不思議~ [2]
・百科事典マイペディア