ハプスブルク家

出典: Jinkawiki

目次

概要

ハプスブルク家は、スイスに発祥した貴族である。古代ローマのユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世時代には政略結婚により広大な領土を獲得した。 中世から20世紀初頭まで、神聖ローマ帝国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国などの国王や皇帝を輩出した。神聖ローマ帝国のシンボルマーク双頭の鷲は、いつしかハプスブルク家の紋章となった。神聖ローマ帝国消滅後はオーストリア帝国に引き継がれた。また、この紋章はビザンツ帝国滅亡後、ロシア帝国の紋章にもなった。


歴史

ハプスブルク家は現在のスイス東北部、ライン川上流域を起源とされている。1273年にハプスブルク家のルードルフⅠ世が神聖ローマ帝国の王位に就いたことにより、歴史の表舞台に出てきた。1276年にボヘミア王のオットカル2世をマルヒフェルトの戦いで破り、オーストリア公国がハプスブルク領となった。その後徐々にスイス領を失っていったことにより、オーストリアに本拠地を移した。ルードルフⅠ世の跡を継いだアルプレヒトが甥のヨーハンに暗殺された後帝国の君主位からは遠ざかり、勢力は一時衰えた。 1440年に約130年ぶりにフリードリヒⅢ世が国王に選出された後、ローマ教皇から帝冠を戴き、ローマ皇帝となった。フリードリヒⅢ世以後、ハプスブルク家が王位をほぼ世襲することとなった。マクシミリアン1世がブルゴーニュ公国の公女と婚姻関係を結び、嫡男のフィリップがブルゴーニュ公となった。マクシミリアンⅠ世の子供たちのスペイン王家とハンガリー王家との縁組により、ハプスブルク家が継承することとなった。その後も、ハプスブルク家の結婚政策は成功を収め、孫のカールⅤ世の時代になると、英仏両国とローマ教皇庁領などを除外すると、ヨーロッパのほとんどがハプスブルク家のものとなった。そのため、「太陽の没することがない帝国」と言われた。祖父マクシミリアンの所領を弟のフェルディナントと分割したため、これ以後スペイン系ハプスブルク家とオーストリア系ハプスブルク家に分かれた。フェルディナントがローマ王に就いていたため、神聖ローマ帝国の王位はオーストリア系の子孫が世襲することとなった。


スペイン系ハプスブルク家

カールⅤ世以後のハプスブルク家では、スペイン系がオーストリア系の指導的立場にあった。甥のフィリップⅡ世がスペイン王の時代に最盛期を迎えた。しかし、イギリスとの戦いでスペインの無敵艦隊の壊滅を契機に、衰退の道を歩んでいった。 また、オーストリアのハプスブルク家との度重なる近親婚のためか、病弱な王が続いた。病弱なカルロスⅡ世が病死すると、フランスのブルボン家に併合され、スペイン系は消滅してしまう。


オーストリア系ハプスブルク家

フェルディナントⅠ世より始まるが、1648年の三十年戦争終戦のおりに結ばれたウェストファリア条約により、ヨーロッパの覇権はイギリス、フランス、オランダに移り、表舞台から遠ざかることとなった。しかし、1683年の第2次ウィーン包囲のときにオイゲン公の働きもあり、オスマン軍を破り、ハンガリーを奪還すると次第に力を取り戻していった。 カールⅥ世の時代にはスペインこそ失いはしたものの、ナポリやベルギーなどのかつてのスペイン領だった地域やボヘミアからポーランド西部まで、またハンガリーからルーマニア北部に広がる大帝国を築いた。 カールⅥ世は長子相続制を定めて、長子であるマリア・テレジアが即位した。しかし、それを不服としたプロイセンのフリードリヒⅡ世との間にオーストリア継承戦争が起きた。プロイセンに対抗するためイギリスに援助を求めたり、敵対していたフランスとも同盟を結んだ。(外交革命)その同盟の証として、娘のマリー・アントワネットがルイ16世に嫁いだ。マリア・テレジアはオーストリアで初めて国勢調査を行ったり、軍隊・官僚制の整備、人材登用など当時としては革新的な政治を行い、国母として一大帝国を築いた。しかし、夫であるフランツ・シュテファンが急逝すると、息子のヨーゼフが神聖ローマ皇帝に即位し、マリア・テレジアの政治的発言力は弱まり、ヨーゼフは啓蒙主義を推し進めていった。このころからハプスブルクの君主としての絶対的権力が弱まっていった。 フランス革命は、ハプスブルク家に衝撃を与えた。ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑はハプスブルク家に脅威を与え、プロイセンと共にフランスに出兵する(フランス革命戦争)。しかしフランス革命政府軍に敗れるなど失態を演じ、さらにナポレオン・ボナパルトの台頭を許して、やがて全ヨーロッパがナポレオン戦争の災禍に呑み込まれ行く動乱の時代に突入する。 神聖ローマ帝国はほぼ名だけの皇帝となっていたが、1806年にフランツ2世が退位したことにより、完全に解体した。一方でフランツは、1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、オーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後ハプスブルク家はオーストリアの帝室として存続した。そして、ナポレオン1世追放後のヨーロッパにおいて、ウィーン体制護持の神聖同盟の一角として地位を保持し、ドイツ連邦内においても優位を保っていた。 1848年にオーストリア皇帝に即位したハプスブルク家事実上最後の君主であるフランツ・ヨーゼフが即位した。ウィーン体制下で自由、独立を求める市民階級の気運はそがれたかに見えたが、勢いが盛り返すように全欧的な広がりで各地で小規模な暴動や叛乱が発生するようになった。ハプスブルク帝国は多民族国家のため構成民族であるマジャール人、チェコ人、スラブ人などの民族意識が高まり、常に対処を迫られていた。この中でもっとも激烈で執拗に迫っていたのはマジャール人を主とするハンガリーだった。この請願に手を焼いた政府は1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が誕生し、ハンガリーの独立を半ば承認した形になった。これにより、多民族もハンガリーと同様の権利を主張し民族運動を展開し、年を追うごとに混乱の度合いを深めていった。こうした混乱の中でフランツ・ヨーゼフの長男のルドルフが自殺(マイヤーリングの悲劇)、最愛の妃エリーザベトが暗殺されるという相次いで悲劇が襲った。さらに、甥で帝位継承者となったフランツ・フェルディナントがサラエヴォで行われる陸上演習を参観しに行き暗殺された(サラエヴォ事件)ことをきっかけに第1次世界大戦が始まった。この混乱の最中フランツ・ヨーゼフは息をひきとった。 次の帝位に上ったカールには崩壊寸前の帝国を立て直すことができず、1918年のカールの退位と共にハプスブルク家は終焉を迎えた。



参考

「ハプスブルク家」 江村洋 講談社現代新書(1990)

http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a12_germany/habsburg.html


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