バッキ訴訟3
出典: Jinkawiki
概要
当時、100人の定員のうち16人を特別枠として設けていた州立カルフォルニア大学デイヴィス医学校はマイノリティーの志願者から通常の試験での選抜方法とは異なる方法によって入学を許可する割当制を行っていた。白人であるアラン・バッキーは1973年と1974年の2回にわたって白人であることから通常の入学試験で同大学の医学校に志願し、2回とも不合格とされた。だが、バッキーと同じ年に試験を受けたマイノリティーの学生は彼よりも点数が低かったにも関わらず合格となっていた。これを不服と感じたバッキーは州裁判所に訴える。第一審でマイノリティー枠を設けること自体が違憲であるという判決が出、この事件はカリフォルニア州最高裁判所に上告された。州最高裁での判決は、州立カルフォルニア大学デイヴィス医学校の入試制度が憲法の規定する「平等保護条項」に反するとし、違憲となった。ここでバッキーの入学を許可するように判決を下したのである。1978年に連邦最高裁判所でも争われ、「この制度は教育において必要不可欠な多様性のある学習環境を確保するために必ずしも必要であるとは言えない」という判決のもと、これもまた憲法の「平等保護条項」に反するとしてデイヴィス校のマイノリティー優遇制度を違憲とみなした。
問題提起
アファーマティブ・アクションでは、通常人種差別に適用するよりも緩やかに合憲性のある審査を適用しようと議論があった。アファーマティブ・アクションと人種差別の性格の違いである。人種差別が特定の人種に属する個人を圧迫しようとするのに対してアファーマティブ・アクションは過去の人種差別の影響の克服や人種的多様性の確保による 人種統合を目的として広い意味での救済を目的としている。厳格な審査ではなく、中間審査や基準を アファーマティブ・アクションに適用しようとする意義は、前述の二つの違いが判別できるという前提に立ってアファーマティブ・アクションを人種差別とは違った基準で審査すべきとされた。アファーマティブ・アクションと 人種差別は区別することができると考えられていたが実際は人種差別と同じと見られ、、アファーマティブ・アクションは厳しい審査基準を適用し違憲という判決にされやすくなってしまった。
いかなる分野においても肌の色で優劣の差が出てしまうところの大きな問題点は西部開拓やマニフェストデスティニーが繰り広げられたアメリカ合衆国ならでは、と一括りにはできない。グローバル化の進む今、海外の教育を取り込もうにもやはりお国柄が先だってしまう。国際関係の調律を取るか、一歩踏み込んでみるか、2020年にオリンピックがあると浮かれているが、そこでも国家間のいがみ合いは続く。いかにしてこの悪しき『思い込み』を解くかも大きな課題であろう。