バルカン問題
出典: Jinkawiki
バルカン半島はオスマン帝国(オスマン=トルコ)により支配されており、トルコからの完全独立を願うバルカン半島の諸国には、スラヴ系、ゲルマン系、ハンガリー系、ギリシア系、ラテン系、ユダヤ系、アジア系などの民族がいた。1875年のボスニア=ヘルツェゴヴィナでの反乱に端を発した国際危機は1877年にロシアとトルコとの戦争を引き起こし、翌年3月のサン・ステファノ条約、7月のベルリン条約を経てひとまず終息した。ベルリン条約でセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立が国際的に承認され、また、ボスニアヘルツェゴヴィナの占領を認められたオーストリア=ハンガリーは、セルビアとの交友関係樹立にも成功する。ベルリン条約以後、ハプスブルク帝国とセルビアの対立が次第に尖鋭化し、また日露戦争での敗北後にロシアが再度バルカンへの関心を深め、セルビアの後見人として振る舞いだし、ベルリン会議でビスマルクが作り出したバルカンでの国際均衡は崩れ始めることとなる。そして、1903年にセルビアで将校団のクーデターが発生して,親墺派の国王夫妻が暗殺され、セルビアはそれ以後オーストリア=ハンガリーから離れ始める。そして、1908年にオスマン帝国で青年トルコ党革命の機に乗じてオーストリア=ハンガリーがそれまで占領下においていたボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合するにいたると、バルカン情勢は再度危機的状況に陥った。
1912年10月、セルビア、ブルガリア、ギリシア、モンテネグロのバルカン諸国はバルカン連盟を結成し、トルコに宣戦した。戦争はバルカン連盟の勝利に終わり、トルコは残っていたバルカン半島の領土をほぼすべて失った。しかし、その戦利品のマケドニアをめぐりセルビアとブルガリアが対立し、バルカン連盟は分裂した。1913年6月にブルガリアはセルビアとギリシアに対して戦端を開き、モンテネグロ、ルーマニアトルコもブルガリアを敵として参戦した。完全に孤立したブルガリアはひとたまりもなく、7月には休戦に追い込まれ、翌月にはブカレストで講和が結ばれた。バルカン諸国は一連の戦争に勝利をおさめ、かつなお領土拡大を目指そうとするセルビアやルーマニアなどと、領土を失い現状に強い不満を抱くブルガリアやトルコからなる2つの勢力に分裂した。
1914年6月28日、ボスニア地方の中心都市サライェヴォで軍事演習を視察に訪れていたハプスブルク帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻は、ボスニア生まれのセルビア人学生ガヴリロ・プリンツィプに暗殺された。これは、バルカンの「火薬庫」に火が投げ入れられたことを意味していた。これがきっかけとなり、第一次世界大戦がはじまることとなった。
参考文献
・林忠行著,『中欧の分裂と統合』,中央公論社
・ヨーロッパの火薬庫~大戦前夜の騒擾~ http://www.kobemantoman.jp/sub/89.htm 7月21日