パブリックスクール2

出典: Jinkawiki

イギリスの学校制度

イギリスの学校制度は日本と同じく公立と私立の二本立てであり、パブリックスクールは国の税金ではなく、親の負担する高額の授業料で経営されているので、私立学校である。しかし、税金を使う、使わないといっても、日本でも私学助成金とか補助金などというものがあるように、この区別はかなり微妙である。イギリスでも私立の中に、もらっている学校と、そうでない学校あり、パブリックスクールは後者にあたる。また、パブリックスクールが私立学校の私立の理由に、名門校ほど歴史が古く、それらが創立されたころに公教育というものが存在しておらず、すべて私立だったという事情がある。また、イギリスの公教育の発達は世界に先駆けて産業革命を達成した。当時の超一流国としては、意外に遅く、「1870年教育法」という法律で始めて国家が庶民階級の初等教育に介入する姿勢をとり、76年からやっと義務化された。そして、1870年にまずは初等教育からスタートして、やがて「中等教育をすべてのものに」ということになり、「グラマースクール」、「テクニカルスクール」、「モダンスクール」の三本立ての時代を経て、今日ではその3種類の学校をコースとして1つの学校にまとめた「コンプリヘンシヴ・スクール」が主流になっている。それと対照的に昔ながらの独自の学校体系による教育を行っているのが、私学であり、5~7歳までの「プレ・プッレプスクール」、7~13歳までの「プッレプ・スクール」、そして最後に13~18もしくは19歳までの「パブッリクスクール」というようになっている。このようなコースを歩む人は、全体的に見れば決して多くはないが、多くの親にとって憧れの的で経済的な余裕さえあれば、子どもをぜひ入れたい場所なのだ。 また、イギリスの学校制度は、一度一方のコースに入ってしまうと他方へ乗り換えることは容易なことではない。


パブリックスクールの定義

パブリックスクールという用語の1番古い使用例は、1180年ごろに書かれたラテン語の文章の中にある。そこでいうパブリックスクールは「修道院の施設ではない一般に開放された町の学校」という意味であるが現在のものとは別のものと考えてよい。 次の使用例としては、1430年代で、今度は自宅における個人教授に対して、教会付属のグラマースクールのことをパブリックスクールと呼んだ。これらを除くと1580年のイートン校が地域の生徒だけでなく、広く全国から公募するようになったことに由来するという例だ。グラマースクールの多くが、地域の子弟、それも貧しい子弟を対象にして設立されたものだったが、それが高額の授業料を自己負担してわざわざ入学してくる、学校の名声を募って全国から集まってくるようなことになれば、パブリックスクールになる。そして、遠くから来る学生は当然、通学できないので、最初は校長の家などに下宿していたのが次第に寮ができ、やがて全寮制になったというわけである。したがって、「ローカルでない」ということと「全寮制」というのがパブリックスクールの条件になる。ただし、最近では通学生の増加から、寄宿生との比率が逆転している学校も少なくない。

パブッリクスクールの特徴

著しい特徴としては、その後の過酷な人生の試練に耐えるために精神と肉体の鍛錬を目的とした「スパルタ式教育」をパブリックスクールが取り入れていることである。自由を尊重するイギリス人があえて教育のために自由を奪うことで学生に自由の意義と規律の必要性を理解させようとしているのである。 パブリックスクールは支配階級の子供が大部分である。卒業後は、大部分の学生は官僚や弁護士など社会の指導的な地位にあって活動をしている。これには、特権階級であるからこそ、特権に伴う義務や責任を果たそうとする「ノブレス・オブリッジ」の精神がある。また、パブリックスクールは特権階級のためのもので、保守的・封建的なシステムでもあるのだ。また逆に、それ以外の階層の人々がそのような職業に就くことはまずない。つまり階層によって職業がかなり明確に分かれており、さらなる支配階級の再生産が行われるわけだ。

≪参考文献≫


  人間科学大事典

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