パブリックスクール4

出典: Jinkawiki

概要

 19世紀には主として支配階級であるジェントルマンの子弟の教育の場であったが、もともとは比較的貧しい人々を対象として設立された基金立グラマースクール(文法学校)を起源としている。イギリスのトップ大学に当たるラッセル・グループ、特にその頂点にあるケンブリッジ大学、オックスフォード大学などへの進学を前提とする。学費が非常に高く、入学基準が厳格なため、現代では、奨学金で入学を許された少数の学生以外は裕福な階層の子供達が、寮での集団生活を送っている。また、海外の富裕層の子供達がイギリスでの大学教育を見越して入学することも多くなっている。

歴史

 グラマースクールが設立されたころ、上流階級では住み込みの家庭教師による邸内の教育が中心であった。しかし、時代とともに、授業料を払って子弟を「私費生」として名門のグラマースクールに通わせることも増えてきた。長子相続性のイギリスでは、貴族の次、三男坊は法曹職や聖職といった専門職に就いて生計を立てなければならず、そのためには大学教育が必要だったのである。  こうして19世紀初頭には、私費生であるジェントルマン階級の男子が全国から広く集まる名門グラマースクールが、「パブリック・スクール」と呼ばれるようになった。19世紀初頭にパブリック・スクールとして認定されていたのは、ウィンチェスター(1382年)、イートン(1440)、セント・ポール(1509)、シュルーズベリー(1551)、ウェストミンスター(1560)、マーチャント・テイラーズ(1562)、ラグビー(1567)、ハロー(1571)、チャーターハウス(1611)の9校である。これらの学校は、8、9歳から18歳くらいまでの男子を対象としており、ロンドンに位置したセント・ポールとチャーターハウスを除いて、全て寄宿制で、授業料は比較的高額であった。教育の内容の中心はギリシャ語、ラテン語からなる古典語教育であった。


参考文献

・伊村元道 『パブリック・スクール物語』(1992) 丸善株式会社

・勝山吉章 『西洋の教育の歴史を知る』(2011) あいり出版

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  構成