パレスチナ問題3
出典: Jinkawiki
3500年の紛争の歴史
紀元前、ユダヤ人は、神から選ばれた「選民」と称し、エルサレム(シオン)は「聖地」であり、ヨルダン川西岸は、神がユダヤ人に与えた乳と蜜の流れる「約束の地」とした。しかし、1世紀後半に、パレスチナを支配するローマ帝国によって、ユダヤ人はこの地を追い出された。
7世紀初め、イスラームが広がり、エルサレムもイスラームの支配下となった。ユダヤ教の神殿があった丘に、ムハンマドが昇天してとされる「岩のドーム」が建てられ、イスラームの聖地となった。これ以降、パレスチナは1917年にイギリスに占拠されるまで、イスラーム信徒が支配した(キリスト教徒がエルサレムを奪還する十字軍時代の役100年を除く)。
ヨーロッパやロシアなどに離散したユダヤ人は、「キリストの殺害者」として長く差別と迫害に苦しめられてきた。19世紀末には、ユダヤ人国家を目指す「政治的シオニズム( (かつて祖先が住み、神が約束してくれた安住の地、シオンの丘(パレスチナ)に帰ろうという思想)」に火がつき、パレスチナへのユダヤ人入植が拡大した。そのため、イスラームの信徒であるアラブ人との衝突が始まった。これが、現在のパレスチナ紛争の発端である。
対立の拍車
イギリスは、第一次世界大戦を有利な戦況にするために、アラブ人とユダヤ人の双方に建国の希望を抱かせた。このイギリスの「二枚舌外交」が、後の紛争を複雑化させた。
第二次世界大戦後、国連は1947年にアラブ人とユダヤ人の2つの国をつくり、エルサレムを国連の管理下に置く「パレスチナ分割決議」を採択した。アラブ(パレスチナ人)側は拒否し、イスラエル側は、1948年に独立を宣言した。これにより、ユダヤ人は、ナチスのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)という悲劇を乗り越えて、「約束の地」での国家建設という悲願を成就した。同時に大量のパレスチナ難民を生み、アラブ諸国との間に、4度に及ぶ戦争を起こした。
アラブ側は、「ヨーロッパのユダヤ人差別のつけをどうして自分たちが払わされるのか」という憤りがある。また、1967年の第3次中東戦争で、イスラエルはヨルダン領の東エルサレム、ヨルダン川西岸、エジプト領ガザ地区などを占領した。右派政党リクードの大イスラエル主義者らによるヨルダン川西岸とガザ地区への植民地建設が始まった。パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長は、「西岸とガザ地区に東エルサレムを首都とするパレスチナ独立国家を樹立する」との目標を掲げ、イスラエルの占領地撤退を要求した。これにより、現在の紛争構造ができあがった。
和平への動きと現状
1977年エジプト大統領がエルサレムを訪問し、1979年にはエジプトとイスラエルは平和条約を調印した。また、1993年にはPLOとイスラエルとの歴史的な和解・暫定自治宣言が調印された。しかし、1995年、イスラエルのラビン首相がユダヤ人過激派の凶弾に倒れ、強硬派のネタニフヤが首相に当選すると事態は暗転、和平交渉は膠着状態に陥った。2001年にリクード党のシャロンが首相になると、イスラエルはさらに強硬な姿勢を示すようになった。また、テロリストがイスラエル側に入り込まないようにと、高い分離壁(シャロンの壁)を造り始めた。
2003年、アメリカ、EUなどは新中東和平案「ロードマップ」を提示した。その後、イスラエル、パレスチナはともに和平案に合意した。また、2005年には、シャロン首相はガザ地区からイスラエル軍の撤退を完了させた。 しかし、イスラエル兵の拉致を巡り、再び対立が激化し、2006年6月、イスラエルのオルメルト首相はガザ地区に侵攻を開始した。7月には、レバノンの武装組織ヒズボラのイスラエルへの攻撃がきっかけで紛争が始まったb。1ヶ月の空爆と地上戦で、レバノン側1700人(3分の2は民間人),イスラエル側(3分の1は民間人)の死者を出した。しかし、初めの目的であった「ヒズボラの無力化」、「拉致された2人の兵士の奪還」もできなかった。
◇参考文献
『クローズアップ現代社会』2007 第一学習社
『まんが現代史 アメリカが戦争をやめない理由』2010 山井教雄 講談社現代新書