パレスチナ問題8
出典: Jinkawiki
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パレスチナ問題の視角
焦点:ユダヤ人(ユダヤ教徒)とパレスチナ人(イスラーム教徒のアラブ人)の領土争い。 ★1948年に民族の「悲願」が実現してユダヤ人国家イスラエルが建国されたが、先住民のパレスチナ人(アラブ系)や周辺諸国との間で何度も大規模な戦争が発生した。 面積:約2万1000平方キロメートル(四国の1.2倍) 周辺諸国:トルコ、イラク、ヨルダン、エジプト、シリア、レバノン 人口:821万人
中東問題の歴史
1897年 第一回シオニスト会議(ユダヤ代表会議)でバーゼル綱領➡*1シオニズム高揚 第一回シオニスト会議はスイスのバーゼルで行われた。オーストリア人のテオドール・ヘルツルのイニシアチブの下ナータン・ビルンバウムの協力を得て開かれたものである。今後の目標に「パレスチナにユダヤ人のための国際法によって守られた場所を作る」とまとめた。 *1シオニズム・・・シオンはエルサレムの雅名、古代に流浪の民となったユダヤ人が故郷のパレスチナに自分たちの国を作ろうとする運動。各地でユダヤ人弾圧が深刻化し、19世紀末に本格化し同地への移住も始まった。 1915年 フサイン・マクマホン協定 イギリスがオスマン帝国の支配下にあったアラブ地域の独立とアラブ人のパレスチナへの移住を認めた協定。 1916年 サイクス・ピコ協定 イギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領土の分割を約した協定。イギリスの中東専門家マーク・サイクスとフランスの外交官のフランソワ・ジョルジュ=ピコによって原案されたことからその名がついた。 1917年 バルフォア宣言 イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアがイギリスのユダヤ系の貴族院議員たちに対して送った書簡。これによりイギリス政府はシオニズムを支持することを表明した。 イギリスの二枚舌 フサイン・マクマホン協定でアラブ人を第一次世界大戦での反トルコの戦いに参加させるための独立を認め、さらにユダヤ人にも協力してもらうためにバルフォア宣言をして国家を創設しようとした。サイクス・ピコ協定を入れて三枚舌ということもある。 1922年~48年 イギリスが委任統治を開始 国際連盟に基づきその場所の監督下を特定の国家に行わせる統治形式を始める。 1939年~45年 第二次世界大戦 ドイツの首相ヒトラー率いるナチスによるユダヤ人の大量虐殺 1945年 アラブ諸国、アラブ連盟結成 アラブ世界の政治的な協力機構。参加国は21か国で本部はエジプトのカイロにある。 1947年 国連総会でパレスチナ分割決議181採択 国際連合によってイギリスの委任統治は終了し、アラブ人とユダヤ人の国家を創出し、エルサレムを特別な都市として行うことになった。さらに、新国家が形成されたら経済同盟国になることと宗教的少数派の権利を保護するように求めた。これに対し、ユダヤ人は一部を除き受け入れたが、アラブ人は一部を除き拒絶した。 1948年 第一次中東戦争(パレスチナ戦争) ユダヤ人がイスラエル国家樹立宣言をし、イスラエル建国に対するアラブ諸国への侵攻が原因。結果は翌年に停戦し、イスラエル(ユダヤ人)が勝利し、建国、領土の拡大(分割案の1.5倍)をした。しかし、これにより約100万人のパレスチナ難民が発生した。 1956年 ナセル大統領スエズ運河国有化宣言➡第二次中東戦争 イスラエル、イギリス、フランスがエジプトに侵入 地中海と紅海をつなぐスエズ運河は1869年に開通し物資を運ぶ際にかなりの利点をもたらした。しかし、この建設費負担のために、スエズ運河の領域であったエジプトは財政破綻し政府保有株はイギリスに譲渡され、財政管理下に置かれた。その後スエズ運河は第一次世界大戦時、運河はイギリス、フランスによって同盟国側の船舶通航が禁止された。さらに第二次世界大戦は北アフリカ戦役において粘り強く防衛された。そして第二次世界大戦後エジプトが革命により共和政に変わり他国と貿易を進めていったが、兵器を購入して四国との関係が悪化し建設資金の融資が拒否されて、エジプト共和国第二代大統領ナセルは7月26日スエズ運河を国有化した。これは、イギリス、フランスに喧嘩を売ることに等しく、国際的非難が高まった。結局エジプトvsイスラエル、イギリス、フランスの戦争になった。(スエズ戦争)これは、アメリカが仲介してエジプトの国有化を認めた。これは、すなわちエジプトはアラブ人から喝采を浴び協力することになった。 1964年 PLO(パレスチナ開放機構)の結成 palestina liberatin organization イスラエルに追われたパレスチナのアラブ系の人々がつくった政治組織。ゲリラ組織やその他の集団で構成され国際もオブザーバー資格を与えて国家に準じた扱いにしている。 1967年 第三次中東戦争(六日戦争) アラブ民族主義の高揚により国際社会は危機感を感じたそこでエジプトのアカバ湾封鎖を口実にイスラエルが奇襲攻撃を開始した。結果は、イスラエルが圧勝し、領土が約5倍に拡大し(シナイ半島、ガザ地区、ゴラン高原、など)広大な領土を獲得した。しかし、新しいパレスチナ難民が発生した。そして、この戦争の処理会議として国連安保理決議242号が広く共有されるようになった。 1973年 第四次中東戦争(十月戦争) イスラエル対エジプト、シリアが戦った戦争。アメリカがイスラエル、イラク、ヨルダンなどがエジプト、シリアを支援した。ナセル大統領から変わったエジプトのサダトは第三次中東戦争によって奪われたシナイ半島の奪還を目指し10月6日にイスラエルを攻撃。攻撃は成功し、一時、上手くいったが、イスラエルの反撃にあい、中間の点で停戦した。その際、反撃を抑えるためのアラブ諸国が支援し、石油戦略をとり、石油価格が急騰し、日本にも石油危機が発生するなど大きな影響を与えた。 1972年 サダト大統領がイスラエル訪問 1978年 キャンプ・デービット合意 エジプト、イスラエルの間で行った合意。アメリカのカーター大統領の仲介でメリーランドのキャンプデービットに招き行われた。合意の内容はシナイ半島からイスラエル軍の撤退エジプトの返還。パレスチナ人の統治について協議を開始。 1979年 エジプト・イスラエル平和条約 1981年 イスラエルがイラクの原子爆弾撃。サダト大統領暗殺。 1982年 イスラエル、レバノン侵攻。PLOの撤退 1987年 イスラエル占領地区住民蜂起➡インテイファーダー 1988年 PLOパレスチナ国家樹立宣言 1991年 湾岸戦争 イスラエルを批判し、アラブの盟主を目指すイラクによるクウエートを占領したことが原因。そこで米軍中心の他国籍軍の攻撃により、イラクが敗北し、クウエートが開放された戦争。PLOの威信の低下、イラクのフセイン政権存続。アラブの分裂になった。 1993年 パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意) イスラエルを国家としてPLOをパレスチナ自治政府として相互に承認するという合意。 1995年 イスラエルの首相ラビンが暗殺される 2001年 アメリカ同時多発テロ 航空機のマンハッタン高層ビルへの大規模衝突事件。その後の報復としてアフガン戦争・イラク戦争が起きた。
現在のパレスチナ問題の主要争点
1、境界線に関しての主張 イスラエル:ヨルダン渓谷をはじめ戦略要地などはイスラエルの管理下に残し、占領地から全面撤退するつもりはない。 パレスチナ:第三次中東戦争に占領したガザ・ヨルダン川西岸をすべてパレスチナに返還すべきだ。 2、エルサレムに関しての主張 イスラエル:イスラエルの首都として絶対であり東部の分割は一切認めない。 パレスチナ:イスラエルが第三次中東戦争時に占領した東エルサレムは将来パレスチナ国家の首都にする。 3、入植地に関しての主張 イスラエル:孤立したものの撤去は可能。入植地のいくつか分割されているものを集約しイスラエルがそれを管理する。 パレスチナ:イスラエルが入植地をすべて撤去すべきだ。
近年のパレスチナ問題
2003.4 アメリカ、ロシア、EU、国連が中東和平構想ロードマップを提示 1、テロ・暴力の終結とパレスチナ人の生活を正常化 2、暫定境界でのパレスチナ境界の樹立や経済復興と独立プロセスの開始を目指し国際会議開催のための移行期 3、恒久的な地位に関する合意と紛争の終結 2006.3 パレスチナ自治政府にイスラーム過激派のハマス政権発足(後に*2挙国一致化をしていく) *2挙国一致化・・・大規模な戦争や経済恐慌といった国家の危機や政党内閣の危機に際して、対立する政党をも包含してつくられた内閣(wikipedia) 2007~10 イスラエル軍レバノン南部侵攻 2008.12 イスラエル軍がガザ地区を攻撃 2009.3 イスラエルでネタニヤフ内閣発足 2009.5~6 オバマ大統領が双方にロードマップ履行を要請 2011 パレスチナ国連加盟の要請
パレスチナは国に昇格?
2011年秋、パレスチナは国連への加盟を申請したが、安全保障理事会では米国が拒否権を行使する働きをみせており、加盟のめぼしが立たないようだ。しかし、ユネスコ総会でパレスチナの加盟が決まった。米国がこれに対し、反対し投票を要求。パレスチナ国連加盟賛成107反対14棄権52か国となり、まずは聖誕教会を世界遺産に登録をした。このような一連の動きにアメリカは、ユネスコへの資金給与凍結をしたが、ブラジル、ロシア、イタリア、中国、南アフリカ諸国はパレスチナを支持。このような経緯で賛否の意見が多く出たため国連総会はパレスチナの国連内での資格をオブザーバー国家とした。