パレスチナ問題9

出典: Jinkawiki

パレスチナ問題

目次

背景

十九世紀末、ヨーロッパではユダヤ人の迫害が激しくなり、パレスチナへの帰郷運動であるシオニズムが発生する。しかし当時のパレスチナでのユダヤ人の割合はごく小さく、大多数のイスラム教徒と少数派のキリスト教徒は、パレスチナの地で大きな対立も起こさず、居住していた。シオニズムの高まりによって、多くのユダヤ人がパレスチナへ向かうが、シオニズムは「パレスチナはユダヤだけの地」とする思想でもある。パレスチナの中心であるエルサレムは、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の聖地であるが、シオニズムの発想はエルサレムのユダヤ人独占を狙う。ユダヤ人帰郷者が増えるにつれ、居住していたイスラム教徒との間に、対立が生まれた。

エルサレム

当時エルサレムはオスマン・トルコの領土であったが、第一次世界大戦でトルコと開戦したイギリスは、トルコ軍の後方攪乱を狙って、大戦終了後にはアラブ人に独立国家の建国を認めるフセイン・マクマホン協定を交わす(1915)。「アラビアのロレンス」として知られるトーマス・ローレンスは、イギリス将校として、フセインのもとでアラブ人の対トルコ戦争を指導した人物である。

イギリス三枚舌外交

イギリスは1916年、大戦終了後のトルコは、英仏露で分割するという秘密条件、サイクス・ピコ協定を英仏間で交わす。これはトルコが敗戦しても、アラブ人の独立は認めないというものだった。この秘密協定は、翌年のロシア革命で政権を握ったソビエト政権が発表した。さらにイギリスは、戦争継続のためにユダヤ資本の協力を得ることを目的に、外相バルフォアが戦後のパレスチナにユダヤ人国家の建国を支持する発言をする(バルフォア宣言・1917)イギリスの本意はサイクス・ピコ協定であったと思われるが、シオニズムとイギリスの「三枚舌外交」が、現在も続くパレスチナ問題の原因となっている。1920年、パレスチナはイギリスの委任統治領となるが、バルフォア宣言という保証を得たユダヤ人は、入植のペースを上げていくことになる。

参考文献

「完全制覇 この一冊で歴史に強くなる! 世界史」 川村亮 立風書房 (2002) 「パレスチナ新版」 広河隆一 岩波書店 (2002)


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成