ヒュースケン殺害事件
出典: Jinkawiki
ヒュースケン殺害 概要 文久元年12月5日、アメリカ公使館の通訳者ヘンリーヒュースケンが、尊皇攘夷派浪士の襲撃により殺害されるという事件が起きる。これ以前にも外国人襲撃事件は何度かあったが、アメリカ公使ハリスの右腕とまで言われたヒュースケンが狙われたこの事件は、改めて各国の政府に衝撃と怒りを与えることになったのである。 ヒュースケンについて ヒュースケンは、アムステルダムの商家に生まれたオランダ人でしたが、21歳でアメリカに渡り帰化している。当時日本は、外交のときの公用語としてオランダ語を採用していたため、オランダ語の通訳を必要としていたハリスに従って、書記兼通訳として来日したのである。ヒュースケンは万延元年からオランダ語通訳のいないプロシャ使節のためにたびたび宿舎に通っていた。その夜もプロシャ使節主宰の晩餐会に参加した後、三人の武士を警護役としてアメリカ大使館に帰る途中に事件に会うのである。薩摩兵士ら7人に襲撃されたヒュースケンは公使館に運び込まれるが、2時間後に息を引き取るのである。 事件の余波 ヒュース権の身分は通訳兼書記ではあったが、ハリスの病中には実質的な代理公使を務め、イギリスやプロシャなどの対日本交渉でも活躍するなど、在日外交官の中でも重要な人物の一人だったのである。それだけに尊皇攘夷派から疎まれる存在だったのかもしれない。 いずれにしても、この事件のことを知った各国の外交官の驚きは大きなものである。イギリス、フランス、オランダの公使達は江戸から横浜に避難することで抗議の意思を表明したのである。これを受けて幕府側も、老中安藤対馬守が外国奉行堀織部正を強く責め、その後堀織部正が自決するという事件まで起きてしまうのである。この問題は結局、ハリスが取り持ち、幕府がオランダ在住のヒュースケンの母に、洋銀1万ドルを賠償金として払うことで決着を見るのである。
参考文献 幕末維新ガイド まるわかり日本史