ビスマルク
出典: Jinkawiki
プロイセンのユンカーの旧家に1815年4月1日生まれる。ベルリン大学、ゲッティンゲン大学で法律を学び、プロイセンの官吏(1836~39)になるが、まもなく辞任。故郷に帰り、領地経営に専念した。47年連合州議会議員となる。この時期のビスマルクは視野の狭い保守政治家で、ドイツの統一や政治改革など自由主義者の要求にいっさい耳を傾けなかった。48年、三月革命が起こるとベルリンに出、保守派の『十字架新聞』を発行して、王制の擁護に努めた。その活躍が認められ、51年からフランクフルト連邦議会でのプロイセン代表、59年駐ロシア大使、62年駐フランス大使を歴任。この間、ヨーロッパ情勢に目を開くとともに、オーストリアを排除し、プロイセンを中心とするドイツ統一の必要を信ずるようになった。ビスマルクは、1862年9月、国王ウィルヘルム1世によりプロイセン首相に任命された。ビスマルクは「鉄血政策」とよばれる強行策で議会と対決し、軍備増強を実施した。その結果、対デンマーク戦争(1864)、プロイセン・オーストリア戦争(1866)、プロイセン・フランス戦争(1870~71)といった一連の戦争を通じて、71年にドイツ帝国を建設、プロイセンを中心とするドイツ統一事業を完成したが、それはドイツの市民階級が長年待ち望んでいたものであった。経済政策では自由主義を貫き、営業の自由や保護関税の廃止を進め、また鉄道、銀行、郵便など国民経済の発展に必要な制度を整備した。ドイツの資本主義はこれにより飛躍的な成長を遂げた。封建社会から市民社会への移行を促進したのである。このような成立の事情を反映して、ドイツ帝国の政治の仕組みは強力な王権と弱体ながら普通選挙に基づく帝国議会が共存し、君主大権と人民主権、連邦主義と中央集権といった相反する原則が拮抗していた。そして全制度の中心に位置したのが帝国宰相としてのビスマルクで、すべての権限を手にする独裁者となっていった。78年に、労働運動の弾圧のために社会主義者鎮圧法を制定し、その一方で83年には世界で最初の社会保険制度である疾病保険法を制定し、その後、災害保険(84年)、養老および廃疾保険(89年)も制定し、今日の医療保険や年金制度等の基盤となっている。ドイツ以外の主要国でも、世界大恐慌以後、積極政策として推し進められるようになったのである。ビスマルクが特に大きな成果を収めたのは外交の分野であった。対独復讐を叫ぶフランスを孤立させ、ヨーロッパの現状を守ろうとする外交は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟(82年)、ロシアとの二重保障条約(86年)、イギリスも加わる地中海協定(86年)を通じて完成し、ヨーロッパ外交の手綱はビスマルク1人の手に握られたかのようであった。しかし80年代末、ルールの炭坑ストや社会政策の問題をめぐり、皇帝ウィルヘルム2世と対立、90年3月に辞任した。晩年は不眠症や持病の神経痛に悩み、98年に83歳でその生涯に幕を閉じたのである。
参考文献:『人と思想 ビスマルク』加納邦光著
参考資料:http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF/