フィンランドの教育の歴史
出典: Jinkawiki
古くフィンランドの人々は、豊かな森林と無数の湖沼のスオミ(フィンランド語で「湖沼の国」の意味)と呼ばれるこの地で、狩猟にいそしみ平和な生活を送っていた。10世紀になると政治的にはスウェーデンとのちのロシア、宗教的にはローマンカトリック教とギリシア正教とがフィンランドの国と住民との獲得に乗り出してきて平和な生活が脅かされるところとなった。この争いは前者に有利に働き、スウェーデンはフィンランドの西海岸のトゥルクを足場にしだいに勢いを拡大していった。そして、1155年には、スウェーデンのエリク九世は十字軍を編成し、ヘンリク司教をともなってボスニア湾を島づたいに渡ってきて、この異教の地のカトリック化と属領化を図ったのである。そのため後ほどフィンランド人もスウェーデン文化に同化していった。そして、いわゆるスウェーデン化を促進するため、支配層の子ども、次いでフィンランドの大地主の子どもなどが読み書きを習ったであろう。15世紀にはいって、グラマースクールタイプの学校も急速に発達を遂げてきた。しかし、こうした学校に出席することを得たのは、ごく一部の特権階級の子どもに限られていた。つまり、一般大衆は、北欧に宗教改革が訪れるまで非識字の状態におかれていたといわなくてはならないし、少数者のための教育も、何らかの国家的見地を表明したものでもなかった。こうした状況を打破したのは、実にトゥルクの大司教ミカエル・アグリコラであった。すなわち、彼はルッターに師事し、帰国後1548年に新約聖書の翻訳を完成するなど、北欧における宗教改革の中心人物の一人として活躍した。また、国民教育にいたく関心を寄せ、42年には最初のフィンランド語の「ABC読本」を刊行するなど、国民教育の父となったのである。
目次 |
教会法と就学義務
M・アグリコラの活躍後、多くの牧師たちは、各教区の一般の子どもの教育に積極的な関心を寄せていたが、1686年の「スウェーデン・フィンランド教会法」は就学の義務を規定した。つまr、義務教育法の最初のものとして注目に値するものである。この法律によれば、すべての人は読むことを学び、さらにかなりの宗教教科書を心底から学ぶべきことが規定され、強制就学のための厳重な罰も設けられた。このように、読み書きができるということは、市民権享受の根本条件となり、人々が競って学んだことは想像するにかたくはない。そして、この教会維持学校への義務教育の規定は、フィンランドをして、それから1世紀以内に文明化されるにあずかって、はなはだ力があったといわなくてはならない。
近代学校制度の確立
前述のようにフィンランドでは、早い時期に義務教育を制定し、非識字者のない国へと進展を遂げていったのであるが、それはスウェーデン化を促進させるためのものであり、宗教的教化を目的としたものであり、学校が教会の監督下にある制度であったことはいうまでもない。
自らを高める労働者学院
一般民衆の中等以上への教育に道は長く閉ざされていたが、それにへこたれるようなフィンランド人ではなかった。特に産業革命は、19世紀末にこの国にも強い影響を及ぼし、貧しい工場労働者を多数輩出せしめていた。そして、一部にはお酒におぼれ、自らを失いかけていた人たちがあり、それに抗して自らを高めようと立ち上がった人たちがいた。1899年労働者自身の手によって労働者学院がタンペレに生まれた。これは、科学、経済、社会学をはじめ、とりわけ自分たちの身近な生活に基づく実科を学ぶところで、大衆の文化的政治的レベルを引き上げようとするものであった。この学院は、労働階級の人々が、彼らの知識との闘いにおいて、各種労働組織と密接で良好な関係を保持することによって、労働運動の健全な発展のみならず、広く国民の知的水準を高めるにひと役買っていたといわなくてはならない。
国民学校
フィンランドでは、1868年に新聞にデンマークの国民高等学校に関する記事が出たのが嚆矢とされる。そして、89年にフィンランド語系のものが、S・ハグマンにより、またスウェーデン語系のものがJ・E・ストレームボイルによって設立されている。この国民高等学校は、デンマークのそれを模したものではあるが、宗教的色彩よりむしろ政治的色彩を強くしたものであり、さらに注目すべきは、男女が同じ教育を同時に受ける男女共学制であったことである。1889年から全国に広がり始めた。
参考文献 フィンランドに学ぶ教育と学力 庄井良信・中嶋博 編著