フレネ教育15
出典: Jinkawiki
目次 |
概要
フレネ教育、フレネ学校は、一小学校教師であったセレスタン・フレネが1953年にほとんど独力で作ったもの。大変ユニークなその教育方法はフランスの公教育の内部でもかなりの教師によって採用され(とはいっても圧倒的少数派である)、諸外国とりわけヨーロッパ、ラテン・アメリカの国々に広まった。
セレスタン・フレネ
1896年10月16日に生まれ、1966年に死去。フランスの教育者で、フレネ教育の創始者である。教師の権威をはじめとする権威主義的な教育方法に異議を唱え、子どもたちが自発的に中心になって学習に取り組めるような教育を受けられる環境づくりを目的とした。また、フレネ教育を生み出した背景として、フレネ自身の子どもの頃の経験も影響している。フレネがニースの師範学校で最終学年を過ごしていたとき、第一次世界大戦が勃発し、戦場へと送られ、そこで毒ガスでしたたかに肺を侵され、70%肺切除の障害者となった。自分が経験した退屈な学校生活と、悲惨な戦争への批判を胸に、新しい教育を求めて、「解放された学校」グループに加わるなど活動を進める。そして、大声を出せないというハンディキャップを持ったフレネは、伝達本位の教育ではなく、子どもの生活や表現そのものを学習の中心に教育を考えていった。これが後のフレネ教育につながり、後述する自由作文などにも発展していった。
作文教育
フレネ教育の代表的なものとして、作文教育がある。基本的に公立学校では文字や文章を書くといったことの練習として、まず教科書が与えられ、文字を覚え、文をコピーすることから始める。しかし、フレネではいきなり文を作ることから始める。その時表現するのに必要な言葉、文字、文は、そのつど覚えていくのである。自分で作った文が言いたいことを表しているかが重要視され、次にみんなの前で発表していく。また、発表する際の原稿や最終的に教員に提出する文章もすべて、自分たちで印刷するのである(学校印刷所)。誤字脱字は友達同士で確認する。このように、文章を作るということを最終目標とした時に、作成からそれに必要な知識、提出方法まですべて自分たちの力、手で行わせるのがフレネ流である。
学習表
フレネ教育は、基本的に公立学校とは違い、一斉授業などではなく個人学習が展開される。個人の発達段階や進度に合わせた個別のカリキュラムを、教員と話し合いながらある一定の期間ごとに決めていく。その際に活用されるのが、「学習表」である。学習の内容や進度計画、進捗状況や評価などあらゆる個人の情報をこの一枚に凝縮するのである。これの活用により、個人の情報が一目でわかり、その子にあった教材や学習を効率よく進めていくことが可能になっているのである。
参考文献
・原章二・原光枝『フレネ学校と子どもたち 私たちの南フランス自由学校体験記』(1990)青弓社
・エリーズ・フレネ『フレネ教育の誕生』(1985)現代書館