ベトナム戦争14

出典: Jinkawiki

  ベトナム戦争(Vietnam War)とは1960~1975年のホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国である北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線とアメリカ・南ベトナム政府との戦争である。周辺諸国なども巻き込んだ戦争である。広義には第二次世界大戦後ベトナムで行われた戦争をさすが、狭義には1964年のトンキン湾事件以後アメリカが大規模に介入し、1973年のパリ共和協定を経て1975年の北ベトナムと南の解放勢力の勝利によって終わった、所謂第二次ベトナム戦争をさす。また、第二次インドシナ戦争ともいわれる。


歴史

 1954年ジュネーブ協定締結後、南ベトナム(ベトナム共和国)に成立したゴ・ディン・ジェム政権は米国の援助下に反共・独裁政策を強行。これに反対する共産主義・民族主義勢力は各地でゲリラ活動を展開し、1960年南ベトナム解放民族戦線を結成した。1961年ケネディ大統領も南ベトナムに多数の軍事顧問団を派遣した。1963-1964年にはクーデタが頻発し、ゴ・ディン・ジェム政権は倒れた。トンキン湾事件を契機にアメリカのジョンソン大統領が北爆・地上戦を開始した・アメリカ軍の兵力は最高時で56万を数えた。このころまでは内戦的性格を持っていたが、1965年アメリカは北ベトナム(ベトナム民主共和国)による解放民族戦線への援助阻止を主張して北ベトナム爆発と南ベトナムへの増兵を開始した。アメリカは50万の地上軍を投入し、韓国・タイ等の派遣軍も加わり、北ベトナムも正規軍を南下させて解放民族戦線を援助し、国際紛争に発展した。1965年の北爆以降アメリカ軍は介入の規模を拡大させ、最新兵器を駆使して大規模な地上戦・空爆を繰り返したが、ソ連・中国の支援を受けた北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線の激しい抵抗で戦争は泥沼化した。1968年旧正月直後の攻撃(テト攻勢)以来、解放民族戦線が戦争主義権を握り、サイゴン地区やトンキン湾沿岸都市部を除く大半の地域がその勢力下に入った。しかし一方で、1968年以来パリで和平交渉が進められてきたが、1973年1月和平協定が成立し、3月米軍戦闘部隊が南ベトナムから撤退、戦争の終結が宣言された。この戦争による北ベトナム・解放民族戦側の死傷者は推定227万人、米国・南ベトナム側が約98万人。1975年4月の北ベトナムによるサイゴン(現:ホーチミン市)陥落で戦争は終結した。


枯葉剤

 ベトナム戦争でアメリカ軍は枯葉剤を駆使して戦った。このベトナム戦争の間に、アメリカは7500リットルの枯葉剤(ダイオキシンを含む)を、南ベトナムの森林や農村や田畑に落とした。代表的なものをオレンジ剤(エージェント・オレンジ)という。1962~1971年に南ベトナムと北ベトナム軍の勢力が潜伏していそうな森林地域で木々を枯渇させ、食料となりうる農作物を処分することを目的として低空飛行する航空機から散布された。2,3,5-T製造過程の副産物である2,3,7,8-TCDDは一般にダイオキシンとも呼ばれ、ごく少量でも有毒である。ベトナムに散布された枯葉剤にはダイオキシン約170キログラムが含まれていた。1970年以降、ベトナム人の間では枯葉剤にさらされたことが原因とみられる流産、皮膚疾患、癌、先天性欠損症、先天性奇形が異常に高い頻度で発生している。


参考文献

   ブリタニカ国際百科事典  http://ha6.seikyou.ne.jp/home/AALA-HOKKAIDO/kareha.htm

 

 ハンドル名:いも


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