ベトナム戦争17
出典: Jinkawiki
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概要
1960年~1975年(しかし、1965年のアメリカによる北爆から始まったという説もある。) 1960年ベトナム統一を目指す南ベトナム解放民族戦線が結成され、北ベトナム側のベトナム民主共和国と連携しゲリラ戦を展開。63年軍のクーデターにより55年に米の支援を受け誕生したゴ=ディン=ジエム政権が倒され南ベトナム側の攻勢が激しくなった。尚、当時の米大統領ジョン=F=ケネディはこれを黙認していた。64年のトンキン湾事件をきっかけに新たな米大統領ジョンソンが米軍の介入をゆるし、これによりアメリカの本格的軍事援助ならびに軍事介入が始まった。65年アメリカは北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始し地上兵力も増員したが、ソ連、中国の援助を受けた北ベトナム、解放戦線の必死の抵抗により戦局は泥沼化していった。68年北ベトナムが最後のアメリカ大使館を占領しアメリカの権威は崩落したが、ジョンソンは2/1に勝利宣言を行い、解放軍を路上処刑した。この時の映像は今でも残っている。しかし、この行為は国際的に非難され5月にパリで北ベトナムと和平交渉に入り、10月には北爆を停止した。しかし、72年にニクソン政権に代わると再び北爆を開始したが、翌年一月ベトナム和平協定に調印し南ベトナムから撤退。75年に北ベトナムと解放戦線がサイゴンを占領。これにより長きにわたった戦争は終わりをつげ、76年にベトナム社会主義共和国が誕生した。
被害状況
ベトナム戦争は米軍の軍事介入や新兵器の使用により甚大な被害や大多数の死者を生むことになった。介入から撤退までの約10年間の間に米軍は約190万人が動員された。さらに、米軍が行った略奪や拷問、無差別殺人により難民が大量発生し、戦死傷者含めその数約300万人にも上った。さらにアメリカがヴェトコン(南ベトナム軍)をジャングルに隠れられないようにするため枯葉剤等の毒ガスをまき170万haのジャングルに約4500ℓ散布され、森林の約四割が影響を受けた。また、混入されたダイオキシンによって流産や奇形児の誕生が起こり今でも深刻な影響を与えている。米軍が用いた爆弾数は第二次世界大戦で使った数の倍使い、戦争が終わった今でも200万発もの不発弾や地雷の被害が続いている。
反戦運動の高まり
ベトナム戦争が泥沼化していく中でアメリカ国内では「なぜ像のアメリカが蟻のヴェトナムに勝てないのか」という政府にたいして不信感が徐々に募ってきた。ここから若者を中心に反戦運動やカウンターカルチャーが起きてのちに全世界に広まった。徴兵カードを焼き兵士の持つ銃口に花を挿すフラワーチルドレンの出現や、1966年アメリカ南部に結成されたSNCC(学生非暴力調整委員会)の声明表示など規模が大きくなっていった。日本国内でもベトナム戦争に対する反戦運動が浸透していき、作家の小田実は「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を結成し市民とともに反戦を訴えたり、写真家沢田教一によるベトナム戦争の悲惨さを世界にアピールした作品「安全への逃避」を出して反戦を訴えた。
ベトナム戦争の背景
1945年、国際連合が発足し世界平和の運動が始まったが翌年ソ連のチャーチルによる「鉄のカーテン」演説を受け、アメリカが共産主義やソ連を抑える「封じ込め政策」を始めた。これを機に両側が独自に条約を作り、東西陣形に分かれて「冷たい戦争(冷戦)」が始まった。共産主義勢力を抑える中でベトナム共産勢力が拡大し、アメリカが止めねばと動く。アメリカが動けば敵対しているソ連がアメリカの敵対国を援助している。この事件はいわば冷戦中の超大大国の戦争でもある。
参考
山川出版社 改訂版詳説世界史B 帝国書院 最新世界史図説 タペストリー
投稿者 ニューパッチK