ベトナム戦争31

出典: Jinkawiki

目次

 ベトナム戦争の歴史 

1883年、ベトナム全土がフランスの植民地支配下に置かれていた。1945年3月、日本軍はフランス軍を武装解除、フエにバオ・ダイ皇帝を元首としたベトナム帝国を樹立させたが、日本軍の敗戦により消滅。同年9月、ホー・チ・ミン主席がハノイのバーデン会場でベトナム民主主義共和国の樹立を宣言した。 ベトナムの再支配をもくろむフランスは、サイゴン(現ホーチミン市)にコーチシナ自治共和国を建国させ、翌年1946年12月、ヴォ―・グエン・ザップ将軍指揮のもとベトミン(ベトナム独立連盟)軍との間で戦争が開始された。

戦闘機・戦車・大砲などの近代兵器を備えたフランス軍の攻撃で、ベトナム民主主義共和国政府とベトミン軍司令部はハノイを撤退。北部山岳地帯に移動し、徹底抗戦に備えた。戦闘は長期化し、ベトミン軍は正規軍・地方部隊と兵力を増強させていくにしたがって、フランス軍による地方の支配地区は大きくなっていった。

1953年11月、フランス軍はラオス国境に近いディエンビエンフーに大陣地を構築しベトミン軍を呼び寄せ、爆撃と砲撃で壊滅させる方法をとった。しかし、補給路が寸断され、陣地は孤立した。陣地を囲む山からのベトミン軍の砲撃などでフランス軍の死傷者が増大し、1954年11月、陣地のフランス軍は降伏した。

 終戦後の道のり 

アメリカ・イギリス・中国・ソ連と戦争当事国のフランス・ベトナム・ラオス・カンボジアが参加したジュネーブ会議で、北緯17度線上のベンハイ川を軍事境界線としてフランス全軍はその南側へ移動、1956年までにベトナム統一のための総選挙を施行する協定が調印された。ベトナムにとって悲劇だったのは、当時冷戦の中で対立していた五大国の主導権のもとにベトナム問題を討議されたことであった。アメリカ代表は、ジュネーブ協定の調印書にサインせず、1956年7月、サイゴンにゴ・ディン・ジェム政権を樹立させた。フランスに代わってアメリカが表面的な交渉の場に出てきたのである。

アメリカがベトナム統一選挙を阻止してベトナムに直接介入した理由は、共産主義の拡大を封じ込めるという世界戦略と「ドミノ理論」に基づいていた。

1947年7月3日、トルーマン大統領は共産主義の脅威を強調し、反ソ連・反共産主義を示す「トルーマン・ドグトリン」を明らかにした。1950年2月の国家安全保障会議(NSC)で「東南アジアにおける共産主義の拡大を阻止することがアメリカの安全に結びつく」「インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)を失えばタイ・ビルマ(現ミャンマー)などの隣国諸国も共産主義の手に落ちる」との「ドミノ理論」が結論付けられ、アメリカはフランス軍の戦費の80パーセントを支援し、フランス軍の勝利に期待をかけた。

「ドミノ理論」はアイゼンハワー、ケネディー、ジョンソンと歴代アメリカ大統領に引き継がれ、アジアの一角を奪われると東南アジアだけでなく中近東、ヨーロッパも共産主義に同調する危険性がある、と危険区域の範囲を広げた。

ベトナムで統一選挙が行われた場合、ホー・チ・ミンが最高指導者に選ばれ、ベトナムは共産化し「ドミノ理論」に結びつくとアメリカは判断した。1955年、アメリカはゴ・ディゴ・ジェムを大統領としたベトナム共和国(首都サイゴン)を樹立され、ベトナムは北緯17度線で南北に分断された。

ジェムの弟ニューの支配下にあった秘密警察は、統一選挙の実現を要求する人々を逮捕・拷問・暗殺・などで弾圧した。ベトナム各地の監獄で数十万人が殺されたといわれている。

こうしたサイゴン政府の動きに対し、1960年、南ベトナム解放民族戦線が結成され、サイゴン政府軍・秘密警察との間で南ベトナム解放闘争が開始された。

 南ベトナム解放闘争 

1961年、ケネディ大統領は400人の軍事顧問を南ベトナムに派遣した。サイゴン政府軍にはアメリカから武器や弾薬が支給され、兵士の給料もアメリカが負担した。アメリカは南ベトナムの国造りを楽観視していた。1961年、ケネディによってベトナムに派遣されたユージン・ステーリー大統領特別顧問、マックスウェル・テイラー軍事顧問は「ベトナムは18か月で平定できる」と報告している。実際に戦争が終結したのはそれから15年後で、しかも解放軍(南ベトナム解放民族戦線・北ベトナム軍)が勝利している。

近代兵器の威力を信じすぎたこと、アメリカの援助に支えられた政権が民間人の支持を得られなかったこと、外国支配に対する反発と民族対立の精神の底力を見抜けなかったことが、アメリカの犯した誤りであった。フランスも同じようにしてベトミン軍に敗れた。アフガニスタンのソ連軍、日中戦争の日本軍も同様である。イラクにおけるアメリカ軍にも同じようなことが感じられる。

 トンキン湾事件 

1963年、メコンデルタのアプバクでサイゴン政府軍の一個大隊が大敗した。戦況は解放戦線に有利に展開していた。その要因は北ベトナムの視点にあるとみたアメリカは、1964年8月、北ベトナムを爆破した。当時、世界のトップニュースとなった「トンキン湾事件」である。

同年8月2日、トンキン湾をパトロールしていたアメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇の攻撃を受け、4日にも再度攻撃されたことに対する報復として北ベトナムを爆破した。

しかし、実際には二度目の攻撃はなく、北ベトナムの爆破目標地点はすでに5月には決められていたことがのちになって判明した。アメリカのイラク攻撃でも、委託の大量破壊兵器保有が理由とされていたが、大量破壊兵器は発見されていない。1937年、日本軍が中国の盧港橋付近で演習していた時、銃弾が飛んできたとして、中国軍に対し攻撃を開始した。中国軍、日本軍のどちらが先に発砲したかは現在に至っても解明されていない。

1964年12月、サイゴンから近いビンジアで、またしてもサイゴン政府軍の海兵が大敗した。サイゴン政府軍の戦力の限界を感じたアメリカは、1965年3月、沖縄からの海兵隊を第一陣として次々と戦闘部隊を派遣し、北ベトナム爆撃は日常的なものとなった。

アメリカ兵が増加するにしたがって北ベトナム軍兵士も増え、ベトナム戦争は泥沼化し、兵士や民間人の死傷者も上昇する一方であった。東西冷戦の続く中、解放軍を中国、ソ連、キューバ、東ドイツ喉の社会主義国が支援し、サイゴン政府・アメリカ軍をイギリス、西ドイツ、日本などの資本主義国が支持し、タイ、フィリピン、日本にあるアメリカ軍基地が使われた。特に沖縄の基地は、アメリカがベトナム戦争を遂行する上で重要な役割を担った。

1968年1月、解放戦線中心の解放軍によるテト(旧正月)攻勢が起こった。フエ、ダナン、サイゴン、カントーなどの都市が戦場となり、サンゴンのアメリカ大使館が一時占拠された。アメリカはこのテト攻勢でベトナムでの軍事的勝利を断念したと伝えられている。1969年1月からパリでアメリカ政府・南ベトナム政府と、北ベトナム政府・解放戦線によって休戦に向けた階段が開始された。

 ベトナム戦争の終戦とその後 

アメリカ軍は1969年7月から段階的に撤退を始め、1973年3月29日に完了。ニクソン大統領はベトナム戦争の「終戦」を宣言した。

南北の分断状態はその後も続いたが、1975年3月1日、北ベトナム軍を中心とした解放軍が中部高原バンメトートで一斉攻撃を開始した。アメリカ軍の支援を失っていたサイゴン政府軍は総崩れになり、ブレイク、フエ、ダナンなど主要都市が次々と陥落した。解放軍は攻撃を続け、同年4月30日、南ベトナム政府最後の大統領となったズオン・ヴァン・ミン将軍は無条件降伏声明を発表、ベトナム戦争は終結した。

 参考文献 

1.ケネス・J・ヘイガン「アメリカと戦争-「意図せざる結果」の歴史」大月書店、2010年

2.石川文洋「ベトナム 戦争と平和」岩波書店、2005年

3.白井洋子「ベトナム戦争のアメリカ―もう一つのアメリカ史」刀水書房、2006年


H.merida


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