ベトナム戦争39

出典: Jinkawiki

ベトナム戦争とはベトナムの独立と統一をめぐって争った戦争である。1960年結成に結成された南ベトナム解放民族戦線は,北ベトナムの支援のもと,南ベトナム軍およびこれを支援するアメリカ軍と戦いであるのだ。69年臨時革命政府を立て、73年には和平協定が作られるとアメリカ軍が撤退,75年南ベトナム政府が崩壊,次の年に南北が統一された。第二次インドシナ戦争ともいわれる。

1964年8月、ジョンソン大統領は「トンキン湾事件」を理由に北ベトナムを爆撃した。さらに1965年2月から「北爆」を開始、さらに地上軍20万人の軍も入れていった。1965年の北爆開始がベトナム戦争の開始とされている。兵力は69年6月には54万人に膨れあがり、排除する運動が展開された。しかし南べトナム解放民族戦線のゲリラ戦術の対応に困り、68年1月の解放勢力側のテト攻勢から形勢は逆転、68年5月からパリ和平会談が始まったのだ。このころ、アメリカ国内や世界各地でのベトナム反戦運動が広がり、1969年にはソンミ村虐殺事件(68年3月、アメリカ軍がソンミ村で女性や子どもを含む約500人を殺害した事件)が明るみにされ、戦争の正当性に対する疑問がアメリカ内外で起こっていたのだ。   1969年に就任したアメリカのニクソン大統領はベトナム反戦運動が高まったため、ベトナムからの撤退を決定したが、1970年以降はカンボジア、ラオスに戦線を拡大していった。70年にホー=チ=ミン・ルートの遮断と称してアメリカはカンボジアを攻めた。さらに71年にはラオス愛国戦線の勢力拡大を抑制するためアメリカはラオスに空爆を加えた。こうして戦火はカンボジア・ラオスを含むインドシナ半島全域に広がり、「第2次インドシナ戦争」となった。このアメリカの戦争拡大は内外の反発を受けたが、ベトナム側もそれを支援するソ連と中国の関係が悪化し、複雑な国際関係の中で交渉の進展はなかった。また戦争の長期化はアメリカ財政を圧し、ドル危機の原因ともなったため、1971年にニクソン大統領は金とドルの兌換を停止した。このドル=ショックは戦後の西側世界のアメリカ一極時代を終わらせることになった。

そんな中、1972年2月、ベトナム戦争の収束の機会をねらって、ニクソン大統領が中国を訪問、続いてソ連も訪問して話し合いを始めた。しかしこの間もニクソンは和平交渉を有利に進めようと北爆を激しくした。パリ和平会議の裏ではアメリカのキッシンジャーとベトナムのレ=ドク=トによる秘密交渉が行われ、1973年1月、ベトナム和平協定が成立して、3月にアメリカ軍のべトナム撤退が始まった。だが、南ベトナムではサイゴン政権と解放戦線の戦闘は続き、1975年4月、ホー=チ=ミン作戦によって首都サイゴンが陥落し、南ベトナム政府は崩壊、ようやくベトナム戦争は終結、ベトナムの独立と南北統一が実現した。   参考文献 http://www.y-history.net/appendix/wh1603-064.html


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