ベトナム戦争4
出典: Jinkawiki
目次 |
概要
ベトナム戦争は1960年代初頭から1975年4月30日まで続いた、南ベトナムと北ベトナムとの武力衝突による戦争。しかし、戦況は次第に南ベトナムを支援したアメリカと北ベトナムを支援したソ連、中国との政治戦略的な戦争となっていく。 ベトナム戦争の間にアメリカではケネディ、ジョンソン、ニクソンと大統領が関わるが、この国策は変わることなく1500億ドルを投じ、ピーク時には年間54万人の軍人を派遣した。米国内だけの兵士ではなく、経済支援のもと、韓国、タイ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンなどからも南軍支援の兵士が派遣。日本も沖縄や厚木の基地が米軍の大きな後方支援となる。 結果としては北ベトナム軍の勝利で戦争は終結した。 しかし、アメリカ軍は5万8千人以上の戦死者を出し、南北ベトナムの人民の死亡者は200万人近くにのぼり、しかも、大量に空中散布された枯葉剤による汚染は今もベトナムの地を蝕んでいる。
特徴1
戦争の前線が存在しなかった。北緯17度線上にDMZ(DeMilitary Zone)が設定されていたが、戦闘は南ベトナム領内のあちこちで発生。北ベトナム側は、米軍およびマスコミがベトコンと呼んだ”南ベトナム解放民族戦線(NLF)”を中心に南ベトナム領土内でゲリラ戦を展開。敵を待ち伏せ、短時間の攻撃を仕掛けた後さっと引き上げるといった戦略。軍隊同士の正面切った戦いではなく、地の利を活かした小競り合い的な戦闘が多かった。これは、NLF側の知恵であり、軍備を湯水の如く投入してくるアメリカの近代戦争と真っ向から戦ったのでは勝ち目がないことをよく知っていた。このように、いつどこからともなく仕掛けられる戦いに、前線のアメリカ兵は恐れおののき、最終的には戦力を喪失し、軍隊の士気の低下を招いた。
特徴2
報道が自由に行われた。先の湾岸戦争でアメリカ連合軍は、作戦中の報道関係者を完全にシャット・アウトした。これは、ベトナム戦争での教訓といわれている。ベトナム戦争では、カメラマンなどの報道関係者はどこへ行くのも自由。ヘリに便乗できたのです。その結果、大勢のカメラマンがベトナムを目指した。そこには常に、世界に知らしめる、自分をアピールする写真を撮るに足る”出来事”があった。もちろん戦争ですから、命を落としたカメラマンもいた。ともかく、1960年代の後半には全世界が注目していた戦争である。
年表
1945年
9月 ベトナム民主共和国(北ベトナム)成立宣言(政府主席ホー・チ・ミン)
1946年
12月 フランス軍と北ベトナム軍の全面衝突、第一次インドシナ戦争の開始
1949年
6月 フランス連合内でのベトナム国(南ベトナム)建国(元首バオ・ダイ)
1950年
1月 中国、ソ連、ベトナム民主共和国を承認
2月 アメリカ、ベトナム国を承認
5月 アメリカ、フランスのインドシナ戦争への援助開始
1954年
5月 ディエン・ビエン・フーでフランス軍降伏
6月 バオ・ダイ、ゴー・ジン・ジェムを首相に任命
7月 ジュネーブでインドシナ休戦協定
9月 東南アジア条約機構(SEATO)の成立
1955年
4月 バオ・ダイの失脚
10月 南ベトナム、共和国宣言、ゴー・ジン・ジェム大統領
1959年
1月 北ベトナム、南ベトナムの武力解放の決定
1960年
12月 南ベトナム開放民族戦線の樹立
1962年
12月 アメリカ、南ベトナム軍事援助司令部の設置
1963年
11月 軍部クーデタでジェム政権の崩壊
1964年
8月 トンキン湾事件、アメリカ議会の「トンキン湾決議」
1965年
2月 解放民族戦線、プレーク基地攻撃
3月 アメリカ、北爆の本格的な開始、海兵隊のダナン基地上陸
1968年
1月 テト攻勢
3月 ジョンソン大統領、北爆の大幅縮小、再選不出馬を表明
5月 パリ和平会談開始
1970年
5月 米・南ベトナム軍、カンボジアに侵攻
1972年
5月 ニクソン、北爆の強化とハノイの機雷封鎖の決定
1973年
1月 パリ和平協定調印
3月 米軍、南ベトナムから撤退完了
1975年
4月 サイゴンの陥落、ベトナム戦争の終結
参考
戦争 -ベトナム戦争- (http://www7b.biglobe.ne.jp/~fifteen_hours/Vietnam.html)
ベトナム戦争とは (http://page.freett.com/nishi/nam/vwartoha.html)
ベトナム戦争年表 (http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/vietnam.htm)