ベトナム戦争40
出典: Jinkawiki
ベトナム戦争の前史
第1次インドシナ戦争の結果、1954年のジュネーヴ休戦協定が成立した。さらに、フランスに代わってアメリカのアイゼンハウアー大統領は世界戦略としてアジアの共産化阻止をかかげ、55年にはSEATOを結成する。さらにSEATOは、介入を強め、ベトナム共和国に親米政権であるゴ=ディン=ディエム政権を樹立した。それに対してホー=チ=ミンの指導する北ベトナムは1959年に南ベトナムの武力解放の方針を定める。後の1960年12月、南ベトナム解放民族戦線を結成した。加えて、1961年1月に就任したケネディ大統領は、積極的な軍事支援を進めるとともに、62年2月にサイゴンに軍事援助司令部を設置した。1963年、南のゴ=ディン=ディエム政権がクーデターによって倒れ、政情不安続いた。同年、ケネディの次の大統領であるジョンソン大統領は北ベトナム直接攻撃に踏み切る方策を探っていた。
ベトナム戦争の開始
1964年8月、ジョンソン大統領は「トンキン湾事件」を口実に北ベトナムを爆撃、さらに1965年2月から恒常的な「北爆」を開始、さらに地上軍20万人の軍も投入された。歴史的には、この1965年の北爆が一般的にベトナム戦争の開始とされている。派遣兵力は69年6月には54万人に増加し、掃討作戦が展開されることになる。しかし南べトナム解放民族戦線のゲリラ戦術に悩まされ、68年1月の解放勢力側のテト(旧正月)攻勢から形勢は逆転した。後々68年5月からパリ和平会談が始まった。このころ、アメリカ国内や世界各地では、ベトナム反戦運動が盛んに行われていた。1969年にはソンミ村虐殺事件(68年3月、ベトコン掃討作戦中のアメリカ軍がソンミ村で女性や子どもを含む約500人を殺害した事件)が発覚したため、戦争の正当性に対する疑問がアメリカ内外で起こってきたのである。
ベトナム戦争の終結
後の1972年2月、ベトナム戦争の収束の機会をねらっていたニクソン大統領は、中国とソ連を訪問して大国間の話し合いを開始した。しかしこの間もニクソンは和平交渉を有利に進めようと北爆を以前に増して激しく行った。パリ和平会議の舞台裏ではアメリカのキッシンジャーとベトナムのレ=ドク=トによる秘密交渉が行われ、ようやく1973年1月、ベトナム和平協定が成立するとともに、3月にアメリカ軍のべトナム撤退が開始された。だが、南ベトナムではサイゴン政権と解放戦線の戦闘は継続され、1975年4月、ホー=チ=ミン作戦によって首都サイゴンが陥落して南ベトナム政府は崩壊し、ようやくベトナム戦争は終結、ベトナムの独立と南北統一が実現した。
ベトナム戦争のその後
これは、第二次世界大戦後のもっとも規模が大きく、またアメリカ合衆国にとって、歴史上はじめての敗北であった。さらにアメリカ資本主義の繁栄に影がさしはじめ、国内の反戦運動の高揚、外交上の孤立などは、大きな打撃となった戦争であった。また国内では、多くのベトナム帰還兵の社会復帰が困難になってしまう「ベトナム症候群」に悩まされた。 また、東南アジアでの民族運動の高まりに伴う対立は、中国とソ連の対立を背景にして複雑化し、カンボジアでは親中国派のポル=ポト政権が成立して親ソ派のベトナムと対立し、1978~79年にベトナムとカンボジアの国境紛争が発生してベトナム軍がカンボジアに侵攻(第3次インドシナ戦争)した。1979年1月にはベトナム軍がカンボジアを制圧、それに対して2月に中国軍がベトナムを懲罰すると称して侵攻して中越戦争が興った。その後もカンボジア内戦が続いたが、ソ連にゴルバチョフ政権が成立したことがきっかけとなり、1986年にベトナムは改革路線(ドイ=モイ)に転換、中ソ関係の改善も進み、1991年のカンボジア和平協定成立によって内戦はついに終結した。1995年にベトナムはASEANに加盟、また同年ベトナムとアメリカの国交は回復した。2006年にはAPEC(アジア太平洋経済協力会議)がハノイで開催され、ブッシュ大統領や安倍首相も参加したことも知られている。