ベトナム戦争48
出典: Jinkawiki
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霧の中の娘
北ベトナム全土にアメリカ軍は、激しい爆撃を繰り返していた。多くのハノイの子供たちが農村に疎開し、若者たちは南ベトナムで戦っていた。初めての北ベトナム取材では「自由と独立ほど尊いものはない。」というホー・チ・ミンの主席の言葉のもとに様々な困難に立ち向かっている人々がいた。朝霧の前に立つチュクバグ湖の前を統後を守る女性が通り過ぎることもあった。このような女性は、霧の中の娘とよばれていた。
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焦土戦争
南ベトナム中部のボンソンの村は、中央の道はベトナムを貫く一号道路があった。両側には椰子の林が繋がっていたが、爆撃、砲撃、檻砲射撃で村は徹底的に破壊された。ベトナム全土の80パーセントを占める農村が戦場となり、多数の農婦、老人、子供が死傷した。焦土作戦の対象とされた。
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市街戦
1968年1月30日から解放軍はサイゴン市を含め、フエ、ダナン、などの34の省都、64の地方都市を一斉攻撃した。これは、テト攻撃である。続いて、5月にも第二次攻撃をかけた。アメリカは、この都市攻撃によってベトナムの軍事的勝利を断念したと言われ、その後アメリカ軍撤退、パリ休戦会議へとアメリカのベトナム政策は変化した。
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敗走
1975年3月1日から解放軍によるタイグエン作戦が中部高原バンメトートで開始された。その後,フエ、ダナンなどの主要都市が陥落。解放軍は首都サイゴンを目指し進撃した。4月9日から始まったホー・チ・ミン作戦により4月30日、サイゴンが陥落、ベトナム戦争は終結した。フエから約10キロ離れたトンミイの軍港には海からの脱出を図ろうとして撃破された南ベトナムの政府軍の戦車などの残骸が散乱していた。
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参考文献
ガブリエル・コルコ 訳者藤田和子(2001)「ベトナム戦争全史}社会思想社/小倉貞男(1992)「ヴェトナム全史」岩波書店