ベトナム戦争59
出典: Jinkawiki
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ベトナム戦争
概要 ベトナム戦争とは、北ベトナム(ベトナム民主共和国)と南ベトナム(ベトナム共和国)の間での武力衝突である。ベトナムを起点としてインドシナが共産化することを恐れたアメリカが軍事介入し南ベトナムを支援したのに対し、北ベトナム軍と南ベトナム解放勢力が協力し、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と戦った戦争と定義できる。
開始
ベトナム戦争は宣戦布告なしの戦争であったため、始まった日は明確ではないが、一般的にはアメリカが軍事介入するきっかけとなった1964年のトキンソン湾事件か、65年2月のハノイやハイフォン市への空爆の開始からとされることが多い。 1964年、ジョンソン大統領はトキンソン湾事件をベトナムによる宣戦布告と受け取り、ベトナムへの本格的軍事介入を始めた。1964年8月には北ベトナムを爆撃、1965年2月から恒常的な「北爆」が開始された。爆撃の対象となったハノイとハイフォン市には、戦後もしばらくタコツボと呼ばれる一人用の爆撃から身を守るための深い穴が残っており、編隊来襲と共にこの穴に飛び込んだという。このようにしてベトナム戦争に乗り込んだアメリカは、最大54万人の兵力を派遣し、さらに8万人の国連軍の支援を受けてオーストラリアやニュージーランドから日本、韓国を含む東南アジア全域を巻き込んだ全面戦争へと発展していった。
テト攻勢
ベトナム戦争は、1968年1月のテト攻勢をきっかけに形成が逆転した。激戦下のベトナムでは、毎年、ベトナムの正月であるテトの期間だけは休戦するという暗黙の了解があった。ベトナム人にとってテトは、一年でもっとも大切にしているけじめの日だったからである。 しかし、この年、ベトナム民族解放戦線はべトナム中部から南部の米軍基地や政府軍の拠点などに対する攻撃を一斉に開始した。中央のダナンや古都フエの戦闘は特に激しく、政府軍の激しい抵抗により市民をも巻き込んだ市街戦にまで発展し、多くの一般市民の犠牲者を出した。 また、アメリカの象徴ともいえるサイゴンの米国大使館は、13人の決死隊によって占拠された。この決死隊は、海兵隊の反撃により一人の重傷者を残して全員戦死した。この光景がテレビ放送によりアメリカの市民に届けられ、これを契機にアメリカ全土や世界各地でのベトナム反戦運動が盛り上がり、1969年にはソンミ村虐殺事件(68年3月、アメリカ軍がソンミ村で女性や子どもを含む500人を殺害した事件)が明るみに出て、戦争の正当性に対する疑問がアメリカ内外で起こり始めた。
ベトナム戦争の発展
その後、アメリカはカンボジア、ラオスに対して戦線拡大として爆撃を開始した。1970年にカンボジアに侵攻し、さらに翌年にはラオス愛国戦線の勢力拡大を阻止するためラオスに空爆を加えた。カンボジアこれをきっかけにでは親米のロンノル政権への不満が募り、当時対抗勢力だったポルポトを支持する声がおおきくなっていった。つまり、この戦線拡大はクメール・ルージュによる人民大虐殺の伏線にもなっていることがわかる。 こうして戦火はインドシナ全域に拡大し、第2次インドシナ戦争の様相を呈した。このアメリカ戦争拡大は内外の反発を受けたが、ベトナム側もそれを支援するソ連と中国の関係が悪化し、複雑な国際関係のなかで交渉は進捗しなかった。また、戦争の長期化によってアメリカ財政が破綻し、ドルショックを引き起こした。
ベトナム戦争の終結
そんな中、1972年2月、ニクソン大統領が中国にて周恩来とベトナム戦争終結のトップ会談を成功させ、続いてソ連も訪問して大国間の話し合いを開始した。しかしこの間もニクソンは和平交渉を有利に進めようと北爆を以前に増して激しく行った。パリ和平会議の舞台裏ではアメリカのキッシンジャーとベトナムのレ=ドク=トによる秘密交渉が行われ、ようやく1973年1月、ベトナム和平協定が成立して、3月にアメリカ軍のべトナム撤退が開始された。アメリカ軍はサイゴン軍に十年間は戦い続けることができる十分な戦闘機や武器弾薬を残していったため、南ベトナムではサイゴン政権と解放戦線の戦闘は継続され、1975年4月、ホー=チ=ミン作戦によって南ベトナム軍最後の拠点であるバ=メ=トートが陥落して南ベトナム政府は崩壊し、ようやくベトナム戦争は終結、ベトナムの独立と南北統一が実現した。
参考サイト
世界史の窓「ベトナム戦争」https://www.y-history.net/appendix/wh1603-064.html#
参考文献
片岡利昭「ベトナムの謎」 (日越貿易会 2015)
ハンドルネーム ぱる