ホロコーストとジプシー
出典: Jinkawiki
「ホロコースト」で最初に浮かぶものはもちろんナチスによるユダヤ人の大量虐殺である。 しかし、ジプシー(=ロマ民族)もホロコーストの対象であった。 このことはあまり知られていない。
ホロコーストとは
もともとは「焼いて神殿に供えられる犠牲」という意味である。 第二次世界大戦後、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を意味する言葉として広く使われるようになった。 ホロコーストの始まりは、最初はドイツ国内で、さらにナチス・ドイツに侵攻し、支配下においた国々でのさまざまな略奪という形で始まった。
ジプシー
ロマ民族のこと。 ヨーロッパを中心に、東アジアを除くほぼ世界中に分布しているといわれる。 馬車で移動をする。 各地で劇場を運営したりして生計を立てている、 自然を愛し、家でじっとすることが難しいくらいである。 そして、音楽によってジプシーは自分たちの心を表現する。
ジプシーへの差別はヨーロッパのどこにでもあるようにドイツでも伝統があった。 少数民族新ティとロマに対する不信や拒絶が昔からあった。 ユダヤ人と一緒にジプシーは拘束された。 1939年9月待つにはドイツ国土の推定「3万人のジプシー」をユダヤ人と同様にポーランドへ移送された。 大量虐殺計画を隠ぺいするために支配下においたほぼ植民地と化していたポーランドは適所であったのだ。 ジプシーたちの虐殺の証拠を見つけるには非常に困難であり、50万人もの人が犠牲になったのにもかかわらずユダヤ人とは異なり、迫害後も長い間援助や理解をほとんどあてにすることができなかった。
フィロメナ・フランツ
ナチスの強制収容所に拘禁されながらもかろうじて一命を取り留めたひとの1人。 アウシュヴィッツ・ビルケナウの「ジプシー収容所」に収容されていた。今は焼かれて存在していない。 行政による「ジプシーいじめ」とその差別的な対応は敗戦後も長い間絶え間なく続いた。
1938年にフィロメナは尋問され、調査用紙に記入させられ、自分がジプシーであることを登録させられた。 そして刑事警察がきて、身体検査の後「純潔のインド人」と言われた。 確かにフィロメナはインド出身であるが、そこでも人々から受け入れられず、孤独な生活をせざるを得ず、逃亡する結果となっていた。 そして宣告されてからはその場所にいられなくなった。 ドイツ国防軍に従軍していたフィロメナの兄はジプシーであることが知られ、優秀であったにもかかわらず軍隊から除隊させられた。
そして強制収容所へ連行される叔父とその子供5人(最年長12歳)を涙ながら見送ったその4週間後には彼女もアウシュヴィッツへ連行された。 頭は丸刈りにされ、服も囚人服を着せられ、ひたすら働かされ続けた。 ほぼ骨と皮のような状態になりながらも逃亡したが、すぐに見つかりひどい罰を受けた。 逃亡の直前に偶然再会した姉に手紙を残したことで姉が自分が逃亡した後かなりひどい拷問を受けたことをしってショックを受ける。
収容所でのジプシーとユダヤ人の違いといえば、ジプシーの法が結束していた、ということだ。
ユダヤ人は互いに密告し合い、相手をナチスに売り渡していた。
それとは対照的にジプシーの絆は深く、希望を捨てず音楽を奏でた。
誰かが歌えば手拍子を加え、少女は踊った。
ついにフィロメナは終戦を迎える直前の45年に再び逃亡を試み、成功した。
地獄の場所から解放されたフィロメナだが、家族がどこへ収容されてしまったのか、ほとんどが亡くなってしまったことは分かっていたが正確な生死については分からなかった。
〈参考文献・URL〉
ヴォルフガング・ベンツ(著)中村浩平・中村仁(翻訳) 『ホロコーストを学びたい人のために』 2004年 柏書房株式会社
金子マーティン(編)『「ジプシー収容所」の記憶-ロマ民族とホロコースト-』 1998年 岩波書店
ホロコースト [1]
(投稿者 dorothy)