マキャヴェリ

出典: Jinkawiki

N.マキャヴェリ(Niccolo Machiavelli )

イタリア・ルネサンス期の政治思想家。著書として「君主論」「戦術論」が挙げられる。

マキャヴェリの政治思想は徹底したリアリズムと目的合理主義の立場に立つもので、政治思想を神学や倫理学から解放することにより、政治の自律化と世俗化を推進している。また、政治においては美徳の行使は役に立たないばかりか時には有害でさえあり、逆に目的達成のためには道徳的に悪とされる手段であっても正当化される=「(支配者は)ライオンの力とキツネの狡さを持て」「目的は手段を正当化する」(マキャヴェリズム)と唱えている。

少年時代のマキャヴェリ

彼は1469年5月3日、フィレンツェに生まれた。父ベルナルトは法律家であり、生活はあまり裕福ではなく、マキャヴェリ家は乏しい土地や財産を効率的に管理、運用することによってかろうじて生計を立ててきた。後年マキャヴェリは「私は貧困の中に生まれ、享楽するよりもまず食うや食わずの生活をすることを学んだ」と述べている。あまり豊かでないマキャヴェリは有名な人文学者に学べず、人文主義の基準からすれば極めて不十分な教育を受けた。

フィレンツェ政府書記官マキャヴェリ

 1498年5月28日、マキャヴェリはフィレンツェ政府第二書記局長に推され、同年7月には軍事委員会にも任命された。マキャヴェリの地位はかつて有名な人文学者が就任した第一書記局長に比べて低いものであったが、格別有名な人文学者でもなく有力家門の出身でもない彼がどのような経緯でこの地位を手に入れたかは多くの謎に包まれている。

  失職と投獄

 メディチ家のフィレンツェ復帰によりピエロ・ソデリー二が追放され、「ソデリー二の手先」であったマキャヴェリも遂に1512年に解任され、同時にフィレンツェ市からの立ち退きを命じられた。(外国に赴くことも原則として禁止された)

 1513年2月、ある若者のポケットから落ちた一枚の紙から反メディチ陰謀が発覚し、その若者と紙に名前があった人々が捕らえられ、投獄された、その中にマキャヴェリの名前もあった。出獄後、彼はなぜかメディチ家への仕官を希望したが、(生活のためだといわれている)結局叶わずこのような政治生活からの疎外の結果。やがてその精力を著作活動に注ぐこととなった。

晩年のマキャヴェリ

 フィレンツェ支配の担い手、ロレンツォがこの世を去ると新たな人材としてマキャヴェリが目をつけられ、フィレンツェの政治の在り方についての見解の提出が命じられた。こうして彼はその晩年をメディチ家の命令による作品の執筆に充てた。


メディチ家の追放とマキャヴェリの死

 1527年、メディチ家は再度フィレンツェを追放され、マキャヴェリの政体改革論は実現されたかにみえたが、フィレンツェの人々にとっては彼はメディチ派であり、「君主論」も良い評価を得られなかった為、彼の新生共和国に仕える夢は断たれた。やがて彼の持病が急激に悪化し、彼は1527年6月21日、58歳でこの世を去った。

参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AA

佐々木毅編 「世界の思想家4 マキャヴェリ」 平凡社

「世界の名著 マキャヴェリ」 中央公論社


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