ミュンヘン協定

出典: Jinkawiki

ズデーテン地方を狙うナチス・ドイツは1938年9月24日にチェコスロヴァキア政府に対しズデーテン地方の割譲を要求し、それに対しチェコスロヴァキアと同盟関係であるフランスは軍動員令を発令した。9月25日~26日間に英仏首脳は会談し、「フランスがチェコスロヴァキアとの同盟関係の上でナチス・ドイツに参戦した場合、イギリスはフランスを支援する」ことを確認した。26日にはチェコスロヴァキアも動員令を発令し、27日にはイギリスも動員令を発令、ここに戦争の危機が生じた。そのため、それを回避すべく英(ネヴィル・チェンバレン首相)、仏(エドアール・ダラディエ首相)、伊(ベニート・ムッソリーニ首相)、独(アドルフ・ヒトラー総統)の4ヶ国の首脳がミュンヘンに集まり会談を行った(チェコスロヴァキア代表は会議には参加できず隣室で待たされた)。翌30日に会談は終了し、4ヶ国によってズデーテン地方をナチス・ドイツに割譲することを約束したミュンヘン協定が締結された。その後、隣室で待っていたチェコスロヴァキア代表マサリク外相に会談の結果がチェンバレンによって伝えられた。この時、マサリク外相は落胆の涙を流したという。この一連の国際会議をミュンヘン会談という。同30日チェコスロヴァキアのシロヴィー首相はミュンヘン協定を受託し、10月1日にはナチス・ドイツはズデーテン地方に進軍した。これによって戦争の危機は回避されたと思われたが、翌1939年にナチスドイツはチェコスロヴァキアを構成する国であるチェコに武力進駐し、その結果同国は9月1日にはドイツに併合され、ここにチェコスロヴァキアは解体された。


ミュンヘン会談の結果は、その後のドイツをいわば舞い上がらせてしまい、第二次世界大戦を引き起こす要因の一つとなったと評価されている。後ののイギリス首相チャーチルも、著書『第二次世界大戦回顧録』の中で「第二次世界大戦は防ぐことができた。宥和策ではなく、早い段階でヒトラーを叩き潰していれば、その後のホロコーストもなかっただろう。」と述べている。しかし一方で、宥和政策ではなくナチス・ドイツを叩き潰そうと強攻策を取っていたとしても、いずれにせよ第二次世界大戦は防ぐことができなかったであろうという意見もある。ミュンヘン会談の際に英仏がナチス・ドイツに譲歩したのは戦争を回避するためだけでなく、ナチス・ドイツの勢力拡大よりもソ連の共産主義の方が脅威と考え、ドイツに譲歩することによって矛先をソ連に向けさせ牽制させようという思惑があったことが最大の理由だったと考えられている。さらに、英仏はいずれにせよ対独開戦は避けられないと考え、戦争準備のための時間稼ぎの必要性から譲歩を行ったという可能性も指摘されている。


参考URL

http://www.est.hi-ho.ne.jp/yuji-onuki/japanese/stamps/main2.html

http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/251_300/256_01.htm

http://www.hm.h555.net/~hajinoue/print/54dainijitaisaen.htm


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