ムガル帝国
出典: Jinkawiki
概要
インド亜大陸には、16世紀はじめに出現したムガル朝が、この世紀のうちに強大なイスラム国家に発展して、イランのシーア派イスラム国家サファヴィー帝国、その西方のスンナ派イスラム国家オスマン帝国とならぶアジアの3大イスラム帝国となった。
ムガル帝国の設立
ムガル朝の開祖バーブルは、中央アジアの台頭したモンゴル系の族長であった。父方はティムールの5代の後裔、母方はチンギス・ハンの13代に後裔と言われる。ウズべクにおされて南下し、1504年カーブルを支配したあと、北インドのロディ朝の反国王派貴族の要請に応じてデリーに進撃。1526年、パーニパットの戦いでロディ朝の大軍を破り、北インドにムガル朝を開いた。ムガルとはペルシア語のモンゴルの意味である。デカン高原にはバフマニー王国のあとの分裂した5王国が、その南方にはヴィジャヤナガル王国が並存していた。 ムガル朝は、16世紀前半はとくにはふるわなかったが13歳で即位した3代アクバルのとき、その智謀と周到な戦略によって、ベンガルからグジャラートにかけての東西、および中央インドにまたがる広大な領域を制圧した。そしてアクバルは、この広大な領域を州(スーパ)・県(サルカール)・郡(パルガナ)に分け、中央の命令が整然とおよぶ巧妙な集権体制を作り上げた。
ムガル帝国の財政
ムガル帝国の財政収入は、主に農民から徴収する地税に依存していたが、アクバルが採用した特徴的な方式は、単位面積あたりの実績を調査して農作物ごとに地税をさだめ、貨幣で徴収したことである。これをザブト制と称した。徴税業務は、官史か、一定の権益保持を許されたザミンダールと呼ばれる豪農層が担当した。また、地税の額は、主要穀物の収穫高の半分にものぼるのが普通で、綿・サトウキビ・インディゴなど商品作物にたいしても税率は高く、農民の手元に余剰はほとんど残らないものであった。
ムガル朝との関係
アウラングゼーブ帝が治めた17世紀後半のムガル帝国は、その支配領域は最大となった。しかし、アクバル帝とは全く反した宗教政策が主な原因となり、貴族から農民にいたるまで、さまざまな階層による持続的な反乱が帝国のいたるところで発生し、ムガル帝国の没落を決定づけることとなった。ムガル朝の支配を急速に衰えさせることになった反乱は、ラージプート諸国の反乱である。アクバル帝のときに服従して以来これら諸国はムガル帝国と友好関係を保ってきた。しかし、1678年、マールワール王の死後アウラングゼーブ帝がこの地を併合しようとしたことから反乱が始まり、ムガル朝との関係は断絶悪化した。
参考文献
世界近代史全史 大江一道 1991年 山川出版社 ムガル帝国の滅亡 著アンドレ・クロー 2001年 法政大学出版局
Hネーム Sato