メアリー=スチュアート
出典: Jinkawiki
メアリ=ステュアート(1542~87)はスコットランド国王(在位1542~67)であり、フランス王国の王妃ともなった。またイングランドの王位継承権も持ち、16世紀中葉のヨーロッパで動向が注目されたが、不行跡が多く、イングランドに亡命してからもエリザベス女王暗殺などの陰謀に関わったとされるスキャンダラスな生涯を送った。最後はエリザベス1世によって処刑されたが、皮肉なことに彼女の子供がイングランド王位を継承しスチュアート朝のジェームズ1世となる。
メアリ=ステュアートは1542年に父のスコットランド王ジェームズ5世が急死し、生まれるとすぐに女王となった。当時スコットランドはフランスと同盟してイングランド王テューダー朝ヘンリー8世戦っていた。スコットランド併合を画策するイングランドはヘンリ8世の死後、若い国王エドワード6世の妻としてメアリを迎えようとしたが、断られるとスコットランドに再び侵攻した。そのためメアリはフランスのアンリ2世の皇太子フランソワと結婚した。メアリの母もフランス宮廷の貴族だったので、スコットランドの女王でありながらフランスで暮らし、熱心なカトリック信者として育った。 生まれながらにして異国の地で女王となった彼女になおも不幸がつきまとう。夫はフランス国王フランソワ2世となったが間もなく死んでしまい、彼女は1561年、18歳でスコットランドに戻る。しかしスコットランドはカルヴァン派の長老派よる宗教改革が行われており、彼女に実権は無かった。その後、美しかった彼女の周辺にはスキャンダルが渦巻く。宮廷の有力者だったダーンリー卿と再婚したが、まもなく夫は暗殺される。メアリーは三度目の結婚をするが、何とその相手はダーンリー卿暗殺の疑いをかけらていたボスウェルという男。結局、不行跡から国民から見放され、1567年に王位を息子(誰の子か判らないとまで言われた)ジェームズに譲り、囚われの身となる。しかし、1568年「馬に一鞭くれて」イングランドに逃亡した。エリザベス1世はメアリをかばい、スコットランドに引き渡さなかったが、イングランド王継承権を持つ(父の母がヘンリ7世の娘)この女性は危険な存在であった。カトリックの復権をもくろむ勢力やエリザベス女王をねたむ勢力は、メアリを担ぎ出そうとしてたびたび陰謀事件が仕組まれた。エリザベスはメアリを幽閉したが、処刑はせずに19年の月日がたち、ついにスペインとの戦争が間近い1587年、女王殺害計画の罪で処刑した。 ちなみに、スペインのフェリペ2世同じカトリックの立場からメアリの処刑に抗議し、後に無敵艦隊派遣する口実の一つにした。
【参考文献】悲劇の女王メアリースチュアート (http://hmpiano.net/koharu/friend/michiko/year2005/mary/newpage1.html) クイーンメアリースチュアート (http://european-style.net/marystuart-drama/)
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