メイフラワー号2
出典: Jinkawiki
メイフラワー号とは
1620年、ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)が亡命地オランダから本国イギリスを経てアメリカへ渡るときに乗った船のことである。この船にはピューリタンと呼ばれる人々が乗船していた。
※ピューリタンとは、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)を折衷した、独自の「イギリス国教会」が成立する中で、プロテスタント側に立ち、強い不満と批判を寄せ、国教会の徹底改革を唱えた人々のことである。「ピューリタン」という呼称には、異端としての侮蔑の意味あいも含まれていたようだが、本来は、国教会を純化(ピューリファイ)するよう求めたところがら、呼ばれるようになったという。彼らの目には、カトリックも、教会の権威主義と世俗化に流れ、また、イギリス国教会も、中途半端な改革にとどまり、どちらも堕落した宗教の姿としか映らなかった。そこで彼らは、真剣に国教会を糾弾し、批判を繰り返したが、これに対しイギリス王権は様々な形で圧力・迫害を加え続けた。
メイフラワー号とピルグリム・ファーザーズ
1808年の夏に、あるピューリタンの一団が信教の自由を求めて故国イギリスを離れ、宗教上の寛容を認めているオランダに移住する。しかし深刻な生活苦に見舞われてしまう。そこで偶然アメリカ植民地の話を耳にした彼らは、新大陸への移住を決意する。そして1620年9月、帆船メイフラワー号に乗り、大西洋を船出した。彼らこそ、ピューリタンとして初めてアメリカに植民地を開いた、かの「ピルグリム・ファーザーズ」であった。 メイフラワー号には乗客102人、乗員47人が乗船していた。そのうち、宗教的理想を求めて乗船したのは、40人足らずであったとされている。航海は困難を極めたが、約2ヶ月後、船は新大陸に到着した。しかしそこは当初、目指していた現在のニューヨーク付近とはほど遠い、北方のニューイングランドであった。見渡す限りの荒野に降り立った彼らは冬を迎え、厳寒と病気に苦しんだ。そして春までに半数以上が死亡し、生き残ったのは、わずか50人ほどであった。だが、ピューリタンは屈せず、いかなる厳しい環境にあっても、胸中にはイギリスで達成できなかった理想社会建設への想いがあった。彼らは、ひたすら働き、努力を重ね、苦境を乗り越えた。そして、アメリカ建設の祖として、歴史にその名をとどめるのである。
アメリカに我が理想の都を建設したピューリタンは、確固たる信念に生涯をかけ、命をも惜しまなかった。彼らなりの「精神の戦い」は、今でも確かな足跡を残している。特に、自治の市民政体を組織し、法の制定と遵守を約す「メイフラワー誓約書」は、民主的な契約社会のモデルを示し、その後のアメリカ社会の建設に影響を及ぼしていくのである。また、ピューリタンが創立したアメリカ最古の大学ハーバード大学は、アメリカの「知性の府」として著名だが、これも彼らが残した遺産の一つなのである。
参考文献
「最初のアメリカ人 メイフラワー号と新世界」 著者:加藤 恭子
「ピルグリム・ファーザーズという神話 作られた「アメリカ建国」」 著者:大西 直樹