メレディス事件

出典: Jinkawiki

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メレディス事件

1961年9月メレディスは生まれ故郷のミシシッピー州オックスフォードにある公立学校ミシシッピー大学に入学を申請した。入学が認められないため起こされた訴訟は最高裁判所までゆき、入学許可の判決が確定した、しかしながらミシシッピー州政府、大学当局の判決無視は続き、ついに裁判所はロス・バーネット州知事とポール・ジョンソン副知事に対し法廷侮辱罪の適用を勧告すると同時に連邦政府に対して強制執行の手続きを指示したのであった。大統領と司法長官はこの責任を引き受け、着実にそして慎重に手を打っていった。それは、バーネット知事を南部保守主義者の殉教者に仕立て上げさせたくなかったからでもあった。 1962年9月事態は急速に悪化していった。それまであらゆる手立てをつくしてメレディスを無事入学させる努力がなされていたが、ミシシッピー州軍の連邦軍への編入さらには連邦軍の出動の大統領行政命令の布告を期に、知事の抵抗もそれまでと悟ったのであった。そして運命の9月30日を迎えたのである。この日大統領は全国民に向かって一連の経過の報告と自身の信念をテレビ演説する事になっていた。それを聞いたバーネット州知事は二つの提案を持ち出した、「自分を大学の玄関前に立たしてほしい。その時連邦保安官が私にむかって銃を構えてほしい、その時私はひきさがる。」「メレディスを誰にも解らないようにこっそりと大学に引き入れてほしい、自分は知らなかった事にするので。」さらに知事は、多数の州警察官を大学構内に配備するので不測の事態は責任をもって回避するからとも付け加えた。要するに自分自身の南部保守主義者に対するメンツを立てさせてほしいと言っているのである。 大統領はこの知事提案に同意した、知事自身を法廷侮辱罪で逮捕したり連邦軍を派遣する事はケネディの本意ではなかったからである。その夜メレディスはジェームズ・マックセーン主任執行官・ニコラス・カッツエンバック司法次官補に率いられた550人の連邦保安官に護衛されて無事大学構内に入った。


ミシシッピー州大学

この当時、ミシシッピー州立大学は同州で一番のエリート校であった。しかし通えるのは白人だけ。そして1954年のブラウン判決以降も、さまざまな手法を駆使して人種統合に抵抗し続けていた。例えば、1958年、同州にある黒人大学教授が入学願書を送ったが、大学側はその教授の精神鑑定を依頼し、結局保護施設送りにしたことがあった。


ミシシッピーは降伏しない

大統領が全米放送を予定していた午後10時前にバーネット知事は「メレディスは、私の知らぬ間にすでに大学構内に入った」と声明を発表してしまった。さらに大統領に200名の州警察官を構内に配備したので軍隊は必要ないと連絡してきたのである。ところが、この州警察官は情勢が不穏になってくると突然姿を消してしまったのである。大統領が演説を始めた午後10時頃、現地では大学構内の連邦保安官550人とそれを取り囲む不気味な群衆が対峙する構図ができあがっていたのである。 そしてその中を大統領の演説が流れた「我が国は法律遵守によって自由が永遠に守られるという原則のもとに立っている。法律を守る人々の間でも、だれにも好かれる法律というものはほとんど無いが、法律は一様に尊重されており、反抗されてはいない。アメリカ国民は、法律と違った意見を持つのは自由であるが、法律に背く事はできない。私としては、どのような手段であろうと必要な手段により、また事態が許す限りなるべく実力を行使せず混乱を起こさないで法廷の命令を実行に移す事が私の義務である。」 しかし、大学をとりかこんだ2500名の群集はこの呼びかけに耳をかすことはなかった、ミシシッピー全州、南部一帯から人種差別主義者が大学に続々と集まってきたのである。 連邦保安官達は命令を守り拳銃は抜かなかった、催涙ガスのみで防戦したが暴徒と化した群集は大学を焼き討ちしブルトーザーが大学の建物に突っ込んできた。一晩中暴動はつずき連邦保安官側に3名の死者、200名以上の重軽傷者を出した。この事態になってもバーネット知事は州警察を復帰させる事はなかった、それどころか、自分がメレディスを大学構内に入れたという裏切り行為を知られる事を恐れて、メレディスを大学から引き上げさせるように要請し続けた。これを拒否されるや州知事は声明を発表した。「ミシシッピーは降伏しない」と・・・・・ 保安官達は血を流し空腹をかかえて疲れ果てていた、はたしてあとどれだけ持ちこたえる事ができるか自信が無いと、悲痛な報告が大統領にもたらされた。ここにきて大統領はメンフィスに待機していた連邦軍の出動を命令した。ケネディは悩んだたとえ軍隊が出動しても、保安官達を救出するのに間に合わないのではないか、と・・それにあれほど危機にたいして迅速に行動する連邦軍の行動は遅遅として進まなかった、国防省に連絡しても「現地にむかっています。」という返事しかもどってこないのである。(連邦軍内部にも群集に同調する動きすらあったと思われる。)10月1日午前4時になって連邦軍は現地に到着、暴徒は鎮圧され、町は平静を取り戻し、400名の暴徒が逮捕された(内、ミシシッピー大学関係者はわずか24名しかいなかった。)バーネット知事はこの時間声明を出している。今度は、暴力反対というものであった。


参考文献

http://maedafamily.com/kanren/meredhis.htm メレディス事件

・中島和子 『黒人の政治参加と第三世紀アメリカの出発』(中央大学出版会 1989年)

P.N.baz


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