モンテーニュ
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モンテーニュ
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概要
16世紀のフランスの思想家、文学者。フランスにおけるモラリスト体系の祖として位置づけられている。
来歴
本名をミシェル=ド=モンテーニュという。1533年2月28日、モンテーニュの城館で生まれる。父は青年時代フランソワ1世のもとで従軍し、イタリア戦争に長期間にわたって参加し続けた力量に富む軍人であった。また母は、大商人の娘であり、モンテーニュ家へ嫁いでいる。生後2年あまり里子として近村に出されたのち、邸に戻ったミシェルは数年間ラテン語を話すドイツ人を家庭教師とし日ごろからラテン語の勉強に励む。6歳でミシェルはボルドーのギュイエンヌ学院に寮生として入学、13歳までこの学院で学ぶ。幼少期のラテン語教育により、ミシェルのラテン語の実力は同世代から飛びぬけており、教師たちも特別扱いせざるを得なかったという。ボルドーでの学校生活を終えたミシェルは10代半ばでモンテーニュ城館に戻る。22歳で城館の位置する場所からそれほど遠くない内陸の都市ペリグーの御用金裁判所にて勤務を始める。のちにこの裁判所はボルドー高等法院に吸収され、ミシェルもそこに移り、後の13年間、王国の法官として働くこととなった。 ミシェルは32歳で妻を迎える。のちに6人(全員女児)の子供をこの妻との間にもうけるが、成人まで達したのは次女であるレオノールのみであった。1568年6月、父が死去する。このことはミシェルの今後を左右する問題となる。父の死によって、長子たるミシェルはモンテーニュ領とモンテーニュ家の当主という立場を受け継ぐこととなった。父から受け継いだ財力を使えば高等法院における自らの立場をより強化することができたはずだが、それはせず、父の死から二年後の1570年、法院の職を友人に譲り渡した。こののち自身の代表作である『エセー』執筆のため諸国を旅した。イタリアでの旅の途中、ボルドーより市長選出の知らせが届く。ミシェルはこれを受諾。4年にわたる市長を終えると家政と読書、そして執筆の生活へと戻って行った。晩年は、数日の間のどに強い炎症があり、声が出ず、結局呼吸困難のような状態で59年6か月余りの生活に幕を閉じた。
著作
モンテーニュの主著は『エセー』と呼ばれるものである。エセーとはフランス語で試みという意味で、『随想録』と訳される。彼はこの書のなかで自己の判断力をためし、自己吟味をしていくことを通して、人間の真のあり方を追及している。
ク・セ・ジュ
モンテーニュの思想の核心をついた言葉で「私は何をしりうるか?」という意味。それは「私は何も知りえない」との懐疑の表明でもなく、「私は何でも知っている」との傲慢さの証でもなかった。常に自己を絶対化せず、吟味しながら経験や理性の限界を見極め、確実で普遍的なものを見出そうとする姿勢の表明である。「私はなにを知りうるか」と自問自答しつつ彼は、私はいまだに真理の探索途上にあるとの自覚をもって、独断や偏見を排し謙虚に思索した。
近代的自我の発現
モンテーニュは館に隠遁して自由な精神で人間省察をおこなった。記述スタイルは「随筆」であり、隠遁の立場から自分自身や世俗の人々を取り上げ、現実的な経験をもとに考察をしている。このことから近代的自我の萌芽を見ることができる。また、このモンテーニュの思想は後の近代思想家であるベーコン、デカルト、パスカル、ルソーなどに大きな影響を与えた。
参考文献
「人と思想 モンテーニュ」著 大久保康明 清水書院
「モンテーニュ」著 ピーター・バーク 訳 小笠原弘親/宇羽野明子
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