ヤーセル・アラファト

出典: Jinkawiki

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プロフィール

1929年8月4日にカイロで生まれた。正式名は、ムハンマド・アブドゥル・ラハマン・アブドゥル・ラウフ・アラファト・アルクドゥワ・アルフセイニである。 主にカイロで、短い間であるがエルサレムで育った。


経歴

1948年 パレスチナのマフティ防衛軍の戦いに参加した。 1956年 カイロ大学工学部を卒業。エジプトのカイロにパレスチナ学生連合(GUPS)を創設し、1952年から1957年まで委員長を務めた。 1956年 パレスチナ卒業者連合の議長となった。スエズ運河危機においてはエジプト軍に志願し戦った。同年末にはクウェートに移り、翌年(アブ・ジハードと共に)ファタハの前身となる組織を結成した。 1959年1月 ファタハを創設した。以来、今日に至るまでファタハはPLOの最大派閥となった。ファタハの指導者として1958年から君臨し、1968年からはスポークスマンの役も務めた。 1964年3月 最初のパレスチナ対中国代表団のメンバーとして周恩来首相と会談を行った。 1969年2月 ファタハがPLOに加入した後、アラファトはPLO執行部の議長に選任された。アラファトはPLOの方針を汎アラブ主義からパレスチナ民族主義に変更し、1970年9月には全パレスチナ/アラブ解放軍を指揮するようになった。 1974年 パレスチナ民族評議会(PNC)の舞台でパレスチナの解放を求める決議を行った。 1974年11月13日 初めてニューヨークにおける国連総会で演説し、片手にオリーブの枝(平和)を持ち、もう一方の手に武器(戦争)を持つことを宣言した。1977年から1978年にかけてエジプトのサダト大統領とイスラエルとの平和会談を拒否した。これは、パレスチナ自治が宣言されたものに比して縮小され、PLOの意義を認めないものであることが明らかになったためである。 1985年 長年の敵であるヨルダンのフセイン国王と和平の枠組みを締結し、パレスチナ-ヨルダン同盟への計画を包含した(1986年にアラファトがアキレ・ラウロ事件を非難しなかった時、フセイン国王はこの計画を破棄した)。 1986年3月、国連決議242および338が提示され、これにより国連安全保障理事会はパレスチナの自決権を保証する約束でイスラエルを承認する案を申し出た。 1988年11月15日 アラファトはイスラエルを承認し、テロリズムを放棄し、独立パレスチナ国家を宣言した。 1989年4月2日 アラファトはPLO中央議会により初代パレスチナ国家大統領に選任された。 1990年から1991年における湾岸危機が起きるまでの間、アラファトはアラブ問題を解決する交渉のための「よいポジション」を与えられた。湾岸危機では、サダムフセインによりパレスチナを代表する「戦争」への呼びかけが行われた。 1992年2月、アラファトはスーハ・タウィルとの結婚を発表した。同年4月、リビアのサハラにおける飛行機墜落事故に巻きこまれたが生還した。 1992年 イスラエルとの秘密交渉を取りまとめた。 1993年9月13日 PLOとイスラエルの間に暫定自治宣言が結ばれた。それ以降、パレスチナ自治に関しイスラエルと交渉を続け、1994年7月1日にパレスチナの地へ戻った。パレスチナ自治政府(PA)を創設し、大統領兼内務大臣に就任した。 1994年 イスラエルのヤツアーク・ラビン首相およびシモン・ペレス外相と共にノーベル平和賞を受賞した。 1996年 選挙では87.3%の有権者から大統領に選任され、パレスチナ憲法を作成する委員会を選出した。 1996年5月 渡米しクリントン前大統領と会談を行った。5月9日に25名で構成される新内閣を発表した。 1997~1998年 改革の失敗および内閣の汚職によりPLCおよび彼の内閣から辞職者が出た(例、ハナン・アシュラウィおよびハイダル・アブドゥル・シャフィ)。 1998年6月 フロレンスで「ゴールデン・ペガサス」賞を受賞。 1998年10月 イスラエルとのワイリバー・プランテーション合意に署名した。イスラエルの撤退とパレスチナ過激派の取締りを要求。 1999年 イスラエルがその約束を破棄した後の暫定期間に、ヨルダン川西岸とガザ地区に東エルサレムを首都とするパレスチナ国家を一方的に宣言しようとするが、断念。 1999年9月 シャルム・エル・シェイク協定に署名し、「C地域」から「B地域」への7%の返還を要求する。 2000年7月 キャンプデービッドでクリントン大統領とバラク首相との交渉に臨む、そこでは断固たる態度を取り、合意に至らなかった責任を取る。 2001年2月 右翼アリエル・シャロン首相が当選後、同首相はアラファトとの接触を拒否し、アラファトはイスラエル政府により益々孤立させられる。アクサ・インティファーダの際は、イスラエル軍によるラマラでの議長府で軟禁され、外出を禁止された。 2003年2月 首相を任命する国際的圧力を受入れ、2003年4月マハムード・アッバースを初代首相に宣誓就任させる。アッバースの辞任後、2003年10月パレスチナ非常事態政府を発表。 2003年11月12日 新首相にアハメッド・クレイ政府を宣言。 2004年10月 病状が悪化、アンマン経由でラマラからパリに飛び、潜在的に致死性の血液疾患の治療を受ける。2001年以降最初の海外渡航となった。2004年10月29日からパリ郊外のクラマールのパーシー・ミリタリー・ティーチング病院で診察および治療を受けたが、回復せず、2004年11月11日死亡が発表され、アラファトの病状についての噂は消えた。


補足

アラファトはイスラエル軍の軟禁下にあった2004年10月、突然体調を崩してパリ郊外のペルシー病院に入院。11月11日に死亡した。死因には不審な点が多く、パレスチナ人の間ではかねて「毒殺説」がささやかれてきた。イスラエルの関与を疑う声も多い。パレスチナ自治政府の故アラファト議長の遺品などから毒性の強い放射性物質が検出されて再燃した「毒殺疑惑」を解明するため、パレスチナの死因調査委員会は24日、今月27日にアラファト氏の遺体を掘り起こして検体を採取すると発表した。アラファトの妻はスイスの放射線物理学研究所に衣服などの鑑定を依頼。今年7月、毒性の強い放射性物質ポロニウムが検出された。妻子は、パリ郊外ナンテールの裁判所に刑事告訴した。


参考文献

(http://www.palst-jp.com/jp/jp_biography.html) (http://www.asahi.com/international/update/1124/TKY201211240450.html) H.N w


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