ユダヤ人迫害2

出典: Jinkawiki

目次

ユダヤのはじまり

ユダヤ人の迫害とキリスト教の教えは切り離せない問題であろう。キリスト教は大きく分けて東方教会、西方教会に分けられ、両教会ともユダヤ人の迫害を行っていたのだが、特に西方教会の迫害は残虐極まるものであった。キリスト教信仰者にとって、ユダヤ人はキリストを殺した大罪人でしかなかった。ユダヤ人のルーツは旧約聖書にある。

聖書にはヤコブという名のユダヤ人が天使と格闘したのち「イスラエル」という名をもらいイスラエルという名前がユダヤ民族の名称となったという話がある。ユダヤ人という名称はユダ族から由来している。

イスラエルが一つの民族となるのは、紀元前13世紀以降。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民は、古代イスラエルの指導者モーセによってエジプトを脱出し、シナイ半島を40年間も放浪した後、神が約束したカナンの地にやってくる。その途中にモーセは神から十戒を授けられた。

十戒に書かれている「あなたはわたしのほかに何者をも神としてはならない」や「像を造ってはならない」などの掟は多神教や偶像崇拝が主流だった古代では珍しいものだった。


迫害の歴史

新バビロニアの王ネブカドネザル2世が、ユダ大国のユダヤ人たちをバビロニア地方(現在のイラク辺り)へ捕虜として連行した「バビロニアの捕囚」が古い時代のユダヤ人迫害であり、これによってユダ大国は崩壊した。彼らは約2000年も各地をさまよい、離散を繰り返した。彼らを受け入れてくれる国はほとんどなかった。

11世紀になると、キリスト教徒たちが「異教徒(ユダヤ人を含むイスラム教徒)からの聖地奪還」を目指した十字軍を開始。聖地に行く途中で多くのユダヤ人を殺害。 後に十字軍本隊は聖地エルサレムに到着するが、エルサレムや周辺の街々でもイスラム教徒と共にユダヤ人は虐殺され、当時パレスチナに住んでいたユダヤ共同体は、消滅したと言われている。またユダヤ人の自由が奪われていった。

13世紀になると、スペインなどでは改宗するか他国に移住するかの選択を強要された。 キリスト教徒となったユダヤ人はマラノ(スペイン語で豚の意)と呼ばれ、改宗後も侮蔑と差別の対象となり続けた。また、カトリックは異端審問制度を確立させ、ユダヤ人が少しでもユダヤ的な風習を守ったり、ユダヤ教で禁止されている豚を食べなかったりするだけで、拷問や火刑など残虐な刑罰が科した。この制度は1801年まで続いた。

13世紀後半からは、ユダヤ人隔離政策が各国に広まり、後に「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人の隔離住居区が作られた。


ユダヤ人大量虐殺と救済

フランス革命後、フランス議会でユダヤ人にも平等の権利が認められ、ゲットーが解放された。その流れはヨーロッパ各地へと広がって行き、ユダヤ人が社会に進出し、ユダヤの社会構成も変わっていった(啓蒙運動「ハスカラ」)。

しかし、現実にはユダヤ人への差別は解消されず、反ユダヤ主義と民族主義のもと、残酷なユダヤ人迫害が各地で起こった。ロシアでは、1881年から「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人大虐殺が何度も起こり、犠牲者は数十万人に及んでいる。

ユダヤ人迫害において世界的に有名な出来事は、第二次世界大戦中のヒトラー率いるナチス・ドイツが行ったユダヤ人迫害であろう。ユダヤ人は法律の保護から外され、拘束されて連行された先の強制収容所では過酷な労働、迫害、想像を絶する凄惨な人体実験、毒ガスによる殺戮などが行われていた。

そのような地獄から命からがら脱出してきたユダヤ人を受け入れてくれる国はなかったが、シンドラーや杉原千畝が個人として救いの手を差し出したのは事実だ。 シンドラーはドイツ軍令司令部から承認されていた自身の軍需工場で、親衛隊の監督下にあったユダヤ人労働者を要求し、虐殺から彼らを保護した。 リトアニア駐在だった杉原はポーランド系ユダヤ難民およそ6000人に独断でビザを発行し、入国を認めた。


参考文献

イスラエルの歴史 シオンとの架け橋

滝川義人 1998年「ユダヤ解読のキーワード」 新潮社


HN:羊一


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