ユダヤ人5
出典: Jinkawiki
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ユダヤ人
ユダヤ人はアブラハムに現れたひとりの神「ヤハウェ」を信じるゆえに「トーラー」に書かれている戒律を伝統的解釈に従って遵守する宗教、ユダヤ教に従う物を原則としてみなされる。 例えば、ユダヤ人の両親から生まれても本人がキリスト教徒である場合「ユダヤ人」とは認められない。
アブラハムと「ヤーウエ」の出会い
アブラハムは今日ユダヤ民族の「父」であるとみなされ続けている。 紀元前二千年ごろ、西セム族に属するいくつかの部族が族長に率いられて、人口稠密なメソポタミアの平原からカナンの地を目指していた。同じころ、今の地理でいうイラクの一部にあたるバビロニアの南部シュメールの古代都市ウルに、テラと呼ばれる男がいた。テラの家族は旅をして、ウルから千五百キロ以上北西の町ハランへやってきた。今でいえばトルコ南部のこの町で、二十五歳にして父テラが死に、七十五歳になる族長アブラハムがこの時はじめてユダヤ人の歴史に登場する。ここで神「ヤーウェ」との最初の出会いである。この出会いにおいて、神自ら族長アブラハムに、神の戒律を守るならば、神はアブラハムの子々孫々を神の「選民」として庇護するという「契約」を申し出た。その際神に選ばれた民として生まれた男子は生後八日目に割礼を受けなければならない、ということだった。そして、カナンの地を約束した。こうして、アブラハムは神に約束された土地カナンに行き、彼の孫たこ部の十二人のこともがイスラエルの十二支族の先祖になったといわれている。聖書には紀元前十四世紀から紀元前十二世紀ごろにかけてイスラエルの地に次々と到着し、定住するようになった各部族の史実を象徴的に伝えている。多神教の町ウルからハランを経てカナンに至るアブラハムの旅は一神教による充実した精神生活への諸部族の憧れを体現していたといえる。
ユダヤ人の価値観と反ユダヤ主義
ユダヤ教は「神」と「トーラー」と「イスラエル」という三つの要素から成り立ってきた。つまり、ユダヤ人の神概念、ユダヤ律法、ユダヤの民族国家という三つの要素だ。これらのいずれにもユダヤ人の忠誠心の厚さがみられ、この忠誠心の厚さが非ユダヤ人の目に非ユダヤの神、法律、民族的審議の正当性への挑戦であると映ってきた。ユダヤ人は、全人類の唯一にして絶対なる神が存在することを言明し、結果として他の誰の神の正当性をも拒むことによって、歴史に登場した。以来、他の民族が大切にしてきた価値観とはしばしば対立した。また、ユダヤ人が生活した非ユダヤ人社会の中で非ユダヤ人の民族的アイデンティティーのほかにユダヤ人のアイデンティティーの両方、あるいはユダヤ人自らの民族的アイデンティティーだけを常に主張し続けることで反ユダヤ感情を生み、その感情を増幅させたと考えられている。 ユダヤ人がユダヤ教に献身する結果としって、ユダヤ人は暮らしてきたほとんどすべての社会で隣人の非ユダヤ人たちよりも質の高い生活をしてきた。ユダヤ人はほぼ常によりよい教育を享受してきた。ユダヤ人家庭の生活は通常、非ユダヤ人の生活よりも破綻をきたすことが少なかった。ユダヤ人は、非ユダヤ人がお互いに助け合う以上に、互いが助け合うことにンwっ新であったといえる。妻を虐待したり、子供を捨てるなどの問題をひきおこすことも少なかった。これらの結果として、いかに貧しくとも平均的宇陀野人の生活の質という点では、その社会で同じ経済水準にある非ユダヤ人の生活の質よりも高かった。ユダヤ人の質の高い暮らしぶりはユダヤ教に起因するものであり、それが非ユダヤ人の競争心をひきおこし、妬みと敵意を招いてきた。こうしてユダヤ教は反ユダヤ主義の温床となってきたと考えられる。
ロシアとユダヤ人
十三世紀以後、迫害を逃れて中欧からユダヤ人が東欧へと移住したユダヤ人はポーランド貴族から土地を借り受け、宿や商店等を経営し農民相手に多様な経済活動に従事しシュテットルとよばれる小さな町をポーランドと、のちにはウクライナに形成した。。十八世紀後半には、約百万人のユダヤ人がポーランド分割によりロシア帝国支配下になった。ポーランドにかわり、ロシアがユダヤ人のセンターになった。歴代のロシア皇帝はユダヤ人をロシア文化に同化させようとした。エカテリナ二世は、ロシア商人を保護するためにユダヤ人の居住地を制限して定住地域を設定した。それは旧ポーランドからウクライナを含む、ロシアのいわゆるゲットーであった。アレクサンドル一世はユダヤ人を強制してロシア文化に漸進的に同化させようとした。ユダヤ人は同化を拒否したが、ニコライ一世は強制的同化策をとった。ユダヤ人指定をロシア正教に改宗させるために兵営学校エイドを設立した。しかしこれもユダヤ人の反対にあった。アレクサンドル二世は再び自由主義的立場からの同化政策をとったが、ポーランド反乱以後、革命運動の進展に対処する反動政策に変わった。十九世紀後半になううと民族主義の台頭により反ユダヤ的な記事が雑誌や新聞に掲載されるようになった。一九一七年、ロシア革命により帝政期の反ユダヤ法は撤廃された。定住地域も廃止され、ユダヤ人は自由になった。ロシア革命直後の共産党員の中にはかなりのユダヤ人がいた。ユダヤ人によって創設された労働者総同盟をはじめとする社会主義あ民主主義諸政党も盛んに活動していた。ユダヤ人の青年たちは、革命によって自由と権利を獲得することこそユダヤ人問題唯一の解決だとして、革命運動に積極的に参加した。三月十六日に臨時政府は帝政時代のすべてのユダヤ人差別法を廃止した。国内の三百四十四万人のユダヤ人は革命後、自由を与えられ、定住地域から都市へ移住するものもおり、革命をさらに推進していった。しかし内戦期の混乱した状況の時にもポグロムが発生して、皇帝軍からもソビエド軍からも、またウクライナ軍からもといったさまざまな軍隊の攻撃により多くのユダヤ人が虐殺された。レーニンは、反ユダヤ主義を革命の敵とみなしていた。そのためにソビエド政権による反ユダヤ政策はみられない。しかし、スターリン独裁期において、ユダヤ人は権力闘争に利用された。国内のユダヤ人問題の解決と国防政策のためにユダヤ自治州を建設するビロビジャン計画も実施された。フルシチョフはユダヤ人を「経済的犯罪者」として描き大衆宣伝を展開し、ユダヤ人は冷戦期において対西側政策の一環として利用された。
ヒトラー・ナチズムとユダヤ人
ヒトラーは一九一九年から二十年にかけてミュンヘンにおいて活発な政治活動を開始するが、このヒトラーの反ユダヤ世界観はナチズムに終始一貫したものであり、ヒトラー政権の成立とともに反ユダヤ政策は開始され、全面戦闘への準備と相まって追放、排除、絶滅へとエスカレートしていく。一九三九年一月、対戦突入を前にしたヒトラーの「ユダヤ人皆殺し宣言」は対ユダヤ人政策におけるナチズムの一貫性を裏付けるものであった。そして同年九月初めの侵略戦争開始直後、ユダヤ人の抹殺計画は次第に実現される。一九四二年一月の「最終解決」を目指すヴァンセー会議以後における毒ガスの使用は、対ロシア東方戦線の停滞とヒトラーの焦りの中で、ユダヤ人絶滅の作業を急速にすすめることになった。追放から絶滅への発展過程においてヒトラーが周囲の側近やナチ急進派からの要求や突き上げで、その方向へ押し流されたという可能性は否定できない。しかし決断の主体はあくまでも総統としてのヒトラー自身であり、周囲の要人や状況が主体ではなかった。
参考文献
「ユダヤ学のすべて」沼野充義 新書館 (1999年初版発行)
「ユダヤ人はなぜ迫害されたか」 著者:Dennis Prager / Joseph Telushkin 訳:松宮克昌 (1999年初版発行)
「ロシア・ソヴィエドのユダヤ人100年の歴史」 著者:Zvi Gitelman 訳:池田智 (2002年初版発行)