ユダヤ教10
出典: Jinkawiki
ユダヤ教の歴史は民族の歴史とともに古い。セム人に属する半遊牧的なユダヤ人の祖先が、民族移動の大きな波のなかでメソポタミアから地中海東岸沿いの地に定住するようになったのは、紀元前18世紀ごろのことと考古学では推定する。『旧約聖書』の「創世記」12章以下のアブラハムの記事はこのような状況を反映している。 ユダヤ教にとって歴史上画期的なできごとは、モーセの指導により民族がエジプトから脱出し、シナイ山において神ヤーウェと契約を結んだことであった。前13世紀前半と推定されるこの事件は伝承(出エジプト記)が語るような民族全体のものではなく、カナーンの地から飢饉(ききん)などで難をエジプトに避けていたヨセフ人を中心とする民族の一部であったろう。しかし、これは民族全体にかかわる神の救いの業(わざ)としてこの民族の意識のなかに深く根を下ろした。神ヤーウェと民とはおのおの主体的な選択に基づく法的行為としてかかわりをもち、その際契約の根底である「聖なる民」となるために教義、慣習、倫理を包括した「教え」(律法(トーラー))が啓示された。ここにユダヤ教の一神性と倫理的性格がすでに明確に打ち出されている。 前10世紀にエルサレム神殿を建立してからの民族の歴史は、亡国、離散、迫害、虐殺という悲劇的な歩みの連続であり、つねに民族のアイデンティティを求める闘いであった。紀元後70年にローマの手で破壊されたエルサレム神殿の喪失は、ユダヤ教にとってとりわけ決定的な意味をもった。なぜなら、神殿祭儀を中心としていたそれまでのあり方が根本的に変質を迫られることになったからである。このような状況によく対処しえたのは、律法の厳格な遵守を目ざすパリサイ派の流れをくむ規範的ユダヤ教の努力の結果であった。彼らは、神殿祭儀にかえてシナゴーグでの祈りや日常的な律法研究を重視し、神のことばとしての律法のなかにユダヤ人としての行動の規範を追求した。成文律法のほかに口伝(くでん)の伝承をも認める立場が、危機的状況に対処しうる弾力性を与えたといえよう。この口伝律法はその後タルムードに集大成されてユダヤ教徒の生活と行動の規範となったものであり、現在にまで続くユダヤ教の性格を決定することとなった。
伝統と現代性との間の緊張を問題としつつも、あまりに過激に走る改革派の動きについてゆけぬ人々の間から保守派ユダヤ教が生まれた。彼らは伝統的ユダヤ教の本質をたいせつに維持しながら、歴史に根拠のある改革を受け入れ、現代社会への適応性を高めようとした。このためには、ユダヤ教の歩んできた道を歴史的に検証する必要があり、いわゆる「ユダヤ学」発展の契機となった。
聖典
ユダヤ教の聖典はヘブライ語の聖書である(内容的にはプロテスタント・キリスト教の『旧約聖書』と共通)。とくに冒頭の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記(しんめいき)」のいわゆる「モーセ五書」はトーラー(律法)とよばれて神聖視されている。神がその意志をモーセに直接啓示した内容と信じられているからである。しかし後のユダヤ教の伝承によれば、シナイ山でモーセが受けた啓示の内容は、成文化されているトーラーだけではなく、口伝の律法をも含むと考えられた(ミシュナ・アボット1.1以下参照)。したがって成文律法(モーセ五書)と並んで口伝律法(ミシュナ)がともに神的権威をもつものと受けとめられてきた。このミシュナは200年ごろラビ・ユダによって結集され、その後パレスチナ、メソポタミア両地の律法学者がこれを基本テキストとして多様な議論を展開し、かつ注釈を加えていった。この議論および注釈をミシュナ本文とあわせて集大成したのがタルムードである。4世紀後半にパレスチナで完成したものはエルサレム(パレスチナ)・タルムードとよばれ、これとは別にメソポタミア地域の学者の成果を500年ごろ集成したのがバビロニア・タルムードとなった。
祖国を失い世界の各地に離散したユダヤ人がタルムードの示す宗教的行動規範に従うことによって、ユダヤ人としてのアイデンティティを保持することができたのである。「持ち運びのできる祖国」(C・ロス)と称されるゆえんである。したがってユダヤ教にとってタルムードは聖典に準じるものとしての位置づけをもっているといってよい。