ユーゴスラビア紛争2
出典: Jinkawiki
ユーゴスラビア内戦
ユーゴスラビア内戦は大きく5段階にまとめることができる。
1.スロバキア独立と伴う十日間戦争
1991年6月、スロバキア共和国が独立宣言するとすぐに国境の管理問題が起こり、共和国軍とユーゴスラビア連邦軍が衝突した。このときは連邦軍が共和国軍の軍事力を過小評価したため自滅して撤退、ECの仲介で休戦協定が締結され、10日間で終わった。スロバキア独立は事実上認められた。
2.クロアチア内戦
クロアチアはスロバキアと同時に1991年6月、独立を宣言した。独立を推進したクロアチア共和国のトゥジマン政権に対して、人口の三分の一を占めるセルビア人住民が反発、9月に内戦に突入した。セルビア人側もクロアチア人と同じく「民族自決」をかかげ、「クライナ・セルビア人共和国」の独立を宣言、ユーゴスラビア連邦への残留を表明した。
ところがドイツに主導されたECがいち早くクロアチアを承認したことから対立は一段と深刻化した。反発したユーゴスラビア連邦は、セルビア人保護を名目に連邦軍をクロアチアに派遣し、内戦は国際問題と化した。11月末に国連の仲介によって停戦に合意、国連の平和保護軍が監視にあたった。しかしクロアチアは95年8月に「クライナ・セルビア人共和国」に対して総攻撃を仕掛けて消滅させ、力ずくでセルビア人勢力を制圧した。
3.ボスニア内戦
1992年3月、ボスニア=ヘルツェゴヴィナが独立を宣言。しかし、ボスニア=ヘルツェゴヴィナは、最も複雑な民族構成をもっていた。それはセルビア人、クロアチア人、ムスリム人の三民族が存在し、それぞれの勢力が拮抗しているという事実であった。このち、クロアチア人とムスリム人は共に独立と連邦離脱を進めようとしたのに対して、セルビア人は独立反対、連邦残留を主張していたので、3月の独立宣言直後からボスニア内戦となって火を噴いた。
4.NATOの空爆
ボスニア内戦の状況が世界に報道される中で、特にセルビア人勢力による民族浄化といわれるムスリムなどに対する残虐行為が知られるようになり、セルビア人およびセルビアのミロシェヴィッチ政権に対する非難が高まった。それに対してEC・国連、さらにアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・ロシアなどが仲介を試みたが、三勢力間の政治的解決は困難を極め、1995年8月末にはNATO空軍がセルビア人勢力に対する大規模な空爆を実施した。これは、冷戦終結後のヨーロッパにおける軍事行動としてドイツなど各国に深刻な影響を及ぼした。
5.デイトン和平
NATOによる空爆によってセルビア人勢力は大きな打撃を受け、アメリカ主導の和平交渉に応じ、1995年11月にデイトン合意が成立、クロアチア人・ムスリム人によるボスニア連邦と、セルビア人共和国との二つの政体からなる一つの国家を目指すこととなった。平和は一応実現したが、国連の監視は依然として継続しており、未だに予断を許さない状態が続いている。
参考文献
柴宜弘『図説バルカンの歴史』2001 河出書房新社 p.156