ヨシップ・ブロズ・チトー
出典: Jinkawiki
ヨシップ・ブロズ・チトー(1892年5月7日-1980年5月4日)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国初代大統領であり、バルカン半島を統一した唯一の人物である。
___人物
名前にあるチトーとは「お前(Ti)があれ(To)をしろ」という彼の口調から付けられたあだ名で本名はヨシップ・ブロズである。このように横柄でありながら、その反面、「欧州の火薬庫」とも呼ばれる民族対立や宗教対立などが絶えなかったバルカン半島を優れた統率力でまとめあげた指導者として名高い人物であった。また、捕虜になったときも諦めず、幾度も失敗を繰り返しながら最後には脱走するという、不屈の闘志を持っていた人でもある。
___ユーゴスラビア建国に至るまで
1892年クロアチア生まれ、1913年から徴兵されてオーストリア=ハンガリー軍の兵士になる。1914年に勃発した第一次世界大戦で東部戦線に送られてロシア軍の捕虜になり、最終的にシベリアでロシア革命に参加して、赤軍の一員および共産党員となった。
革命が一段落すると1920年に帰国するが、セルビア王国に吸収されユーゴスラビア王国となった故郷でもユーゴスラビア共産党員になり、非合法な活動家として逮捕、投獄されたり、スペイン内戦に共和国政府側の義勇兵として参加している。その直後からソ連が援助する共産主義者主導の共和派【パルチザン】と、ソ連以外の連合国が援助するセルビア人主導の王党派【チェトニク】による抵抗運動が始まる。チェトニクはやがて枢軸へと寝返る。
ユーゴスラビア最大の抵抗組織となったパルチザンは1943年11~12月に行われたテヘラン会談で連合国全体と、ロンドンのユーゴスラビア王国亡命政府からの支持を受け、ユーゴスラビア人民解放軍を編成、チトーはその主導者となった。人民解放軍は、寝返ったチェトニクを含む枢軸軍と激しく戦い、一時は壊滅寸前になるものの連合国からの支援を受け盛り返し、敵中にありながらドイツ軍など枢軸軍の戦力を吸引拘束する、大きな戦力となる。
結果、1945年5月にナチスドイツが降伏、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が終結した時には、人民解放軍はドイツ軍を圧倒しユーゴスラビアをほとんど解放していた。
___ユーゴスラビア建国
戦争終結直前、解放された首都ベオグラードでチトーを首相とする正式な政権が発足した。さらに国民投票で亡命政府の国王の廃位が決まると、ユーゴスラビア連邦人民共和国を成立させる。
彼はソ連式の国営企業方式を採用せず、労働者が資本を持つことを許し、労働者が経営者を求人して選ぶ独自の社会主義を建設。完全な資本主義というわけでもなく、西側にも属しない第三世界を構築して、インドなどと共に非同盟政策を採った。また彼には「ユーゴスラビアはひとつであり民族主義的な思想は許さない」というポリシーがあり、政権批判などの言論の自由は許されたが民族主義に関しては投獄などの強力な措置をとっていた。
建国にともないチトーはスターリンと話の折り合いがつかず、ソ連からは幾度となくチトー向けた暗殺者が送り込まれることとなる。しかし、チトーは秘密警察を組織してその暗殺団に対応、その全てを撃退または検挙した。加えて、スターリンには暗殺をほのめかすような発言をし、ついにソ連はチトー暗殺を断念するに至った。
___チトーの死
1980年、チトーは87歳でこの世を去る。彼の死後もしばらくはその政治体制が維持されていたものの、連邦政府は次第に各共和国の信頼と支持を失っていった。やがて民族主義が復活、中でもセルビア人民族主義者による大セルビア主義が他の民族を弾圧し始めた。それはユーゴスラビア全体に波及し、どの民族もユーゴスラビアからの離脱と民族自決を求めた。
1991年にはクロアチアとスロベニアが独立を宣言。それに続くようにしてマケドニアも独立を宣言した。1992年にはボスニア=ヘルツェゴビナが独立を宣言。独立にともない紛争が勃発した。皮肉にも内戦を助長したのは、チトーが戦争への危機感から訓練を受けさせていた成人男性たち、つまり元ユーゴスラビアの兵士たちであった。この独立にともなった紛争は終結までに数多くの犠牲者を出しながら、10年に渡り続くこととなる。
___参考文献
『ユーゴスラヴィア現代史』柴宜弘/岩波新書
『チトーは語る』ウラジミールデディエ著/高橋正雄訳/新時代社
『よき人々の歴史』阿部祐太著/阿部出版
http://www.abeaxis.co.jp/yokihitobito-history/tito/index.html
『旧ユーゴ民族紛争の概略』
http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/World/East_Europe/Yugo/outline.htm
HN/立月(たつき)