ラクスマン

出典: Jinkawiki

A.K.Laksman  1766年~96年

日本の漂流民である大黒屋光太夫を保護し、ペテルブルクまで同道してその帰国に尽力したキリル=ラクスマンの次男で海軍の軍人。 女性皇帝エカチェリーナ2世の命により、通商要求を目的に日本人漂流民を伴い、根室に来航した。 翌年、松前で幕吏と交渉したが、通商は拒否され、長崎入港を許可する証明書である信牌を受けて帰国した。 江戸時代の日本人で太平洋を漂流し、アリューシャン列島に漂着してロシア人に救助され、ペテルスブルクまで行って時のロシア皇帝エカチェリーナ2世に謁見した日本人がいる。ラクスマンに保護された日本人漂流民とは、伊勢(三重県)出身の船頭大黒屋光太夫である。 彼らは1782年12月、伊勢白子港から江戸に向けての物資を運ぶ神昌丸で船出したが、遠州沖で嵐に遭い、漂流したのである。 アムチトカ島に漂着した後、ロシア人に伴われてシベリアを横断し、9年後の1791年にペテルブルクにたどりつく。 白子港を出たときの乗組員は全部で17人と猫が1匹であったが、途中壊血病で死んだり、イスクーツクでロシアに帰化したりして、ペテルブルクに着いたのは船頭の大黒屋光太夫と船乗磯吉の二人だけになっていた。二人をペテルブルクに連れてきたのはキリル=ラクスマンで、この二人を日本に帰すことで鎖国中の日本と交易の機会を作ることをエカチェリーナに進言しようとして二人を連れてきたのである。光太夫と親しく接見したエカチェリーナ(その時62歳)、鄭重に彼を扱い、帰国を認めた。光太夫たちはアダム=ラクスマン(キリルの子供)と同道して日本に戻ることになった。これがラクスマンの日本来航の理由である。 ラクスマンといっしょに日本に戻った光太夫と磯吉は1793年に江戸に入り、将軍徳川家斉に謁見、その体験を報告した。その報告を聞き出し、記録したのが桂川周甫の『北槎聞略』である。二人は江戸に屋敷を与えられたが、日露の交易の開始には役立つことができなかった。

<山下恒夫『大黒屋光太夫』-帝政ロシア漂流の物語- 2004 岩波新書> <野澤伸平『日本史用語集』 2016 山川出版社>


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