ラヴェル
出典: Jinkawiki
ラヴェル
ジョゼフ・モーリス・ラヴェルは1875~1937年…政治的に著しく不安定な状態と科学技術のめざましい進歩が特徴とされる時代を生きた音楽家である。 1875年3月7日午後10時、スイスの土木技師である父-ピエール・ジョゼフ・ラヴェルとバスク出身の母-マリー・ドルアールとの間に誕生した。1882年5月、7歳の誕生日を迎えた直後、ラヴェルはアンリ・ギスから最初のピアノレッスンを受けた。ギスはこの小さな弟子が「知的」であるらしいと見て取った。その後、シャルル=ルネが和声と対位法と作曲のてほどきをし、パリ音楽院教授のエミール・ドコンブがラヴェルの2番目のピアノ教師となった。1889年6月2日、エミールの24人の弟子がサル・エラールでコンサートを開き、さまざまなピアノ協奏曲の抜粋を演奏した。14歳のラヴェルにとっては、これほど心を奪われた豊かな音楽体験は初めてで、彼は生涯を通じてロシアや東洋の音楽に興味を持つことになった。 彼は作曲家としての生来の才能を示していたが、通常はピアノを練習したがらず、遊んでばかりいた。しかし、ラヴェルは音楽の道を歩むことに決め、1889年11月、パリ音楽院の入学試験に合格した。
音楽院では、多くの教授が彼を実力のある生徒だと認めていたが、遅刻をきっかけに見る目が変わり、しばしば練習をしないときがあり、その演奏が教授を失望させた。その後、ラヴェルは和声で失敗し、ピアノの賞を再三とりそこなうなど、ピアニストとしても失敗したことに動揺して、突然パリ音楽院をやめてしまった。
べリオ教授とべさーる教授のもとで学んでいる間に、ラヴェルの最初期の作品が作曲された。パリ音楽院を去ったあと、ラヴェルのペンからはよどみなく作品が生まれ続けた。それらの多くは生前、ほとんど知られることがなかったが、第一次世界大戦に先立つ時期に彼の全生涯で最も集中的に作品が生み出されることになった。
1914年夏、総動員令が布告され、ついでドイツとの開戦という驚くべき発表がなされた。多くの人々はこのニュースを半信半疑で受け取った。交戦状態はすぐに終わるだろうと考えていたが、結局のところ、それに続く大量虐殺がひとつの時代の終わりを告げようとしていた。
同年8月、ヨーロッパの生活は突然砕け散った。20歳のときにヘルニアと虚弱体質のため兵役を免除されていたラヴェルだったが、いまや39歳の彼は国のために尽くそうと決めた。彼は軍隊に志願する前に、三重奏曲をなんとか完成させたいと思い、猛スピードでやりとげた。そして9月、彼はサン=ジャン=ド=リユーズで負傷兵の介護にあたった。また1915年、ラヴェルはトラック輸送兵として第13砲兵連隊に入隊した。
1916年に結成されたフランス音楽防衛国民同盟は著作権のあるドイツとオーストリアの作曲家のあらゆる作品の演奏を禁止しようと提案した。この会の規約は広く賛同を得たが、ラヴェルは同盟に参加することを拒み、ドイツに声明文をあげた。この声明文はラヴェルの独立独歩の考え方、そして、危険な感情的問題に関して、少数派の立場を擁護する勇気を立証するものである。とどのつまり彼は、他国の芸術的な成果を無視することは逆効果であり、フランス音楽を守る最良の方法はフランスの作曲家が良い音楽を書くことだと確信したのである。
戦時の窮乏や悲劇、そして衝撃的な経験の中で、ラヴェルは母の健康の悪化に悩み、友人や家族のニュースがしばしば途切れることを気に病み、彼自身の健康もひどく悪化した。
1917年、ラヴェルは軍隊から一時帰休した。その後、再び作曲活動を再開する。作曲された6曲のピアノ組曲それぞれが、戦争で倒れた仲間たちの思い出に捧げられている。戦後、ラヴェルはパリで仕事をするのは不可能と感じ、ほうぼう探し歩いたのち、ついにモンフォール・ラモリに屋敷を購入した。戦後の混乱が収まると、パリの音楽生活は徐々に活気と多様性を取り戻した。
1937年の秋の間に、ラヴェルの健康は急激に悪化し、12月17日、彼はパリのボワロー通りのクリニックに入院した。2日後に高度な技術を要する脳の手術がおこなわれ、当初ラヴェルは回復したかのように思われたが、その直後、半昏睡状態に陥った。1937年12月28日、彼は生涯を終えた。
参考文献:アービー・オレンシュタイン著 井上さつき訳「RAVEL 生涯と作品」音楽之友社 2006年