ルース・ベネディクト
出典: Jinkawiki
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概要
本名 ルース・フルトン・ベネディクト(Ruth Fulton Benedict)は、1887年6月5日にニューヨークに生まれ、1948年9月17日に亡くなった、アメリカの文化人類学者である。
日本の文化について書いた「菊と刀」が有名。また、同世代の文化人類学者、マーガレット・ミードとの恋愛関係と協同研究についても有名である。主に若い頃、アン・シングルトンの名で詩も書いている、詩人。またヒューマニストで平和主義者でもある。人類学を学んだのは、国際、民族間での相互理解の欠如が戦争勃発の一因でありそれを回避したいと思ったことによる。人類学の研究が、民族の閉ざされた扉を開く鍵であり、国際間の真の理解を築き上げる基礎であると確信していた。
生涯
1802 祖父ノウヴァ スコウシアがカナダより移住
1887年6月5日 アメリカ ニューヨーク州 シナンゴ・ヴァレーで生まれる
1889 医者である、父フレデリック死去 (10代頃 ヨーロッパ遊学や英語教師など)
1914 生化学者のスタンレー・ベネディクトと結婚する(1931 離婚)
1921 コロンビア大学に入学
1922 バーナードカレッジで、アメリカ文化人類学の父フランツ・ボアズの助手になる。 マーガレット・ミードと知り合う。
1923 コロンビア大学で講師
1926 バーナードで講師
1931 スタンレーと離婚。
コロンビア大学助教授になる
1934 「文化の型」(Patterns of Culture) 1936 師ボアズがコロンビア大学を退職。
1937 コロンビア大学準教授になる
1946 「菊と刀」(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)
全米女性大学人協会の年間功労賞受賞。
1946 アメリカ人類学会会長になる
1948 コロンビア大学教授になる。
9月17日ニューヨークで病死。
1959 「人類学者の研究生活」(An Anthropologist at Work)
菊と刀
ルースベネディクトの最も有名な著書で、アメリカ文化人類学史上最初の日本文化論。戦時中の調査研究をもとに1946年に出版された。恩や義理、人情などといった日本文化の価値についてかかれ、日本は「恥の文化」西洋は「罪の文化」と提唱した。日本の行動様式、生活習慣は日本固有のものであることが強調されている 当初は戦争のために敵国日本について軍事的参考にするためにかかれた。また、恥と罪により、日本と西洋を対比している点にも批評がある。しかしいま、この作品に対して再び人類学的立場から彼女の平和主義者的、また詩人的精神が見直されている。
彼女はこの本の中で些細な日本の日常にいたるまで書いているが、彼女は日本へ来たことは一度も無い。第二次世界大戦に突入してしまった時期であったために独自の研究、膨大なデータと経験・分析によりこの本を描いている。この分析の深さ、鋭さから彼女の学問的能力の尊大さがうかがえる。
マーガレット・ミードとベネディクト
ルース・ベネディクトにとってマーガレット・ミードは大切な親友であり、また恋愛感情で紡がれたパートナーであった。 マーがレッド・ミードは同じ師ボアズに学び、果敢なフィールドワークの成果をもとに、「文化とパーソナリティ」学派の基盤を創った。
1922年に初めてであったとき、ベネディクトはバーナード大学ボアズ研究室の助手、ミードは15歳年下の学生だった。たがいに惹かれ合ったふたりは、まもなく協同研究をはじめる。共著はないが、恋愛感情をともなう交友はベネディクトが死ぬまでつづいた。
ルース・ベネディクトもマーガレット・ミードも、自身の同性愛指向を気に病み、不安定な精神と絶えず格闘していたが、同じ苦悩と感情を共有する最良のパートナーシップであった。二人は学問世界の閉鎖性、男性研究者からの中傷など、さまざまな社会的制約を乗り越え、人類学的にも当時の最前線で活躍し、また恋愛と研究の自由の創造といった点でも功績を残している。
参考資料
・学術文庫 「菊と刀 日本文化の型」ルース・ベネディクト著 長谷川松治 訳
・明石書店 「マーガレットミードとルースベネディクト」ヒラリー・ラプスリー著 伊藤悟訳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E3%81%A8%E5%88%80
http://www.bca-ocbc.org/Messages/Miyaji/MiyajiMay2006.html
http://www.cscd.osakau.ac.jp/user/rosaldo/030807benedict.html