ルース・ベネディクト2
出典: Jinkawiki
ルース・ベネディクトとは
ニューヨーク出身でアメリカの文化人類学者。ヴァッサー大学に学び、1909年に卒業した。その後1919年、コロンビア大学の大学院で学び始め、フランツ・ボアズの指導を受け、PhDを取得、1923年教員の1人となる。マーガレット・ミードは、彼女の教え子の1人である。彼女は、1930年代の初めまでアン・シングルトン(Anne Singleton)のペンネームで詩文も書いていた。
彼女の『文化の型の捉え方』(1934年)は、あらゆる人間社会の中で現れてくる行動のかたちを記述する中での文化の相対主義を表現したものであった。(彼女の批評家たちは、これを全体の中の「ごく些細な一部」という言い方をする。) 1936年、彼女は助教授に昇任した。ベネディクトは、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参入するに当たって戦争に関連した研究や助言のために、招集した代表的な社会人類学者の1人となった。
彼女のあまり知名度の高くない著作に、彼女がジーン・ウェルフィッシュと共に書いたパンフレットがある。これはアメリカ軍のために人種的な偏見について学問的な解説を企てたものである。軍は、軍事的な効率と関係する人種的に動機付けられた行動に関心を持っていたのだが、この著作物は、それについての完全な説明を網羅するまでには至っていない。
『菊と刀』
ルース ベネディクトを有名にした『菊と刀』は、第二次世界大戦中に、彼女がアメリカ政府から日本文化の研究を依頼されたことに始まる。当時、アメリカは南太平洋で日本軍と戦っていたが、敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず、つまり敵兵の情報を知るためであった。彼女は、第二次世界大戦後もコロンビア大学を休職してまで『菊と刀』に専念し、1946年ついに出版にこぎつける。結果、この種の本としては、異例の大成功となった。その後、ルース ベネディクトは日本研究のための異例の大プロジェクトをもくろむが、日本の土を踏むことなく、61歳で病死している。
『菊と刀』で最も有名なものが、日本人は恥の文化で、西洋人は罪の文化という分類だ。『恥の文化』では、人前で恥ずかしいことはしないが、誰も見ていなければやる。対して『罪の文化』では、罪を決める神は、いつでもどこでも見ているから、人が見ていなくても罪をおかさない。という内容である。 ベネディクトは、日本を訪れたことはなかったが、日本に関する文献の熟読と日系移民との交流を通じて、日本文化の解明を試みた。『菊と刀』はアメリカ文化人類学史上最初の日本文化論であり、出版から50年以上たった現在でも不変の価値を持ち続ける古典的な著作とされる場合もある。 『菊と刀』は日本文化の価値体系の独自性を強調する。しかし、最近ではそれを懐疑する傾向も見られる。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれていることに、批判の目が向けられている。また、日本の文化を外的な批判を意識する恥の文化と決め付け、欧米の文化を内的な良心を意識する罪の文化と定義し、倫理的に後者が優れていているとの主張を展開したことへの批判もある。ただし、日本文化が何らかの問題・欠点を抱えているという認識は第二次世界大戦終了直後のころは日本人・欧米人の間ででも自明の事実として議論されていたという時代性も考慮すべきである。
参考資料
ayu