ルービン・カーター

出典: Jinkawiki

 ルービン・カーター(Rubin Carter 1937年5月6日-2014年4月20日)は、アメリカの元ボクサー。「ハリケーン」の異名で知られる。冤罪事件により、19年間を刑務所で過ごし、後に釈放された。その冤罪事件は彼の名前をとり「ルービン・カーター事件」といわれる。

目次

ルービン・”ハリケーン”・カーター

 1937年5月、ルービン・カーターはアメリカ合衆国ニュージャージー州に生まれた。彼が生まれた時代は人種差別がひどく、幼少時代から黒人というだけで多くの濡れ衣を着せられ、少年時代の多くを少年院で過ごした。少年院から出所した後、軍隊に入隊し、勤務地のヨーロッパでボクシングを覚え、1961年にプロに転向した。身長173センチとミドル級では小柄であったが、強烈な左右の連打による手数の多さと黒人特有のばねを生かし、マジソン・スクエア・ガーデンなどでリングに上がり、エミリー・グリフィスに初回KO勝ちする。ジョーイ・ギアデロに挑んだ世界戦では判定で敗れたが、将来を嘱望される選手の一人であった。

 1966年の6月、アメリカニュージャージー州のパターソンという街で、殺人事件が発生した。「ラファエット・バー」という名の酒場にショットガンと拳銃を所持した人物が2人車で乗り付け、そこにいたバーテンを含む男女4人に向かって突然発砲し、3人を殺害、1人に重傷を負わせた。犯人2人は何も盗むことなくそのまま車で逃走した。この時、目撃者が数人いた。

 この事件で、ルービン・カーターは目撃者の曖昧な情報をもとに犯人だと決めつけられ、無罪を主張しながらも有罪を言い渡され、終身刑を宣告された。その時の陪審員は全員が白人であった。1974年、彼は独房にて、自伝「16ラウンズ(The Sixteenth Round)」を出版した。一度認められた再審判決でも有罪となったが、ルービン・カーターを支持する協力者たちの尽力もあり、1985年に判決が破棄され、釈放された。しかし裁判での闘争は続き、完全に自由の身となったのは1988年のことであった。

事件の影響

 ルービン・カーターは自伝「16ラウンズ」で自身の冤罪を訴えた。これは大きな反響を呼び、黒人差別であるとして市民デモにまで発展した。モハメド・アリやボブ・ディランなど、多くの著名人もそれに賛同した。特にボブ・ディランは、独自に取材し1975年に「ハリケーン」という曲を制作し、ルービン・カーターの無罪を訴えた。「16ラウンズ」を読んだレズラという名の少年が、この本に感銘を受け、ルービン・カーターの再審判決のために協力し、ルービン・カーターの無罪判決に貢献した。1999年には、ルービン・カーターの半生が「ザ・ハリケーン」として映画化された。

レズラ少年

 レズラ少年は、ルービン・カーターと同様にスラム街で生まれた。多くの差別を経験し、二人は同じような境遇で育った。

 レズラ少年は読み書きができず、栄養不足によって15歳になっても身長が150センチにも満たなかった。あるとき、彼を見かねたカナダ人夫婦に引き取られ、カナダに移住する。そこで彼は偶然「16ラウンズ」を目にした。そしてその本に感銘し、ルービン・カーターを助けたい一心でルービン・カーターの再審判決のために尽力し始める。

 ルービン・カーターは最初、一度認められた再審判決が無効となり、絶望し人との関係を絶っていたため、レズラ少年を拒絶していた。しかし、レズラ少年の熱心な説得や彼を引き取ったカナダ人夫妻の協力、さらに読み書きができなかったレズラ少年がカナダの最難関大学トロント大学に合格したことにより、再び無罪判決を勝ち取るために戦うことになった。その結果、見事に無罪判決となり、自由を得ることができた。

その後

 ルービン・カーターの出所後、彼は自身と同じく冤罪と戦っている人たちのサポートをしていた。さらにアメリカ各地を周り、人権擁護の運動をしていた。レズラ少年はのちに弁護士となり、多くの人を救っている。

 2014年4月20日(日本時間で21日)、ルービン・カーターはカナダ・トロントで亡くなった。76歳であった。死因は前立腺ガンだと伝えられている。

参考文献

Goraiasu


  人間科学大事典

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