レッドパージ
出典: Jinkawiki
レッドパージ(red purge)は、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)に被占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)のマッカーサー総司令官の指令により、共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、日本共産党員やその支持者またはそれとみなされた者が、その思想信条や政治的立場を理由に、次々に退職させられた動きを指す。なお、1950年にはアメリカ本国でも共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われた。この一連の動きも含めた全てをレッドパージと呼ぶ場合もあるが、本項では日本国内の場合についてのみ記述する。
概要
太平洋戦争終結後、GHQ/SCAPは日本の民主化を推進し、日本共産党も初めて合法的に活動を始めたが、その結果、労働運動が激化し、また1949年に中華人民共和国が成立して、朝鮮半島も不穏な情勢になると、弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。 朝鮮戦争勃発の直前である1950年5月、マッカーサーは共産党を法の保護外に置くこと(非合法化)を示唆し、5月30日には皇居前広場において共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日には日本共産党中央委員会全員24名、『アカハタ』編集幹部17名の公職追放を命じ、いっさいの集会・デモを禁止した。朝鮮戦争開戦とともに公職追放の範囲は、新聞・放送関係、電気・運輸などの重要産業部門のすべてに拡大し、9月1日の政府決定によって政府機関や公共部門にまで及んだ。追放指名者は占領軍の示唆や口頭指示を口実に政府と経営者の手で決定され、解雇された労働者は米軍の憲兵や武装警官隊によって実力で職場から排除された。このようにして、不当に解雇・追放された者は、公務員関係1177人、民間産業1万0972人に上る。このとき、裁判所は、占領軍の命令を憲法に優先するものとして身分保全の申請を却下し、労働委員会も審問拒否の態度をとった。共産党は内部分裂と混乱のために有効に対処しえず、社会党や大多数の労働組合もこの不当解雇を傍観した。さらに、一部の右翼的組合幹部は当局や経営者に積極的に協力し、日本の労働運動は大きな打撃を被った。公職追放の指令それ自体はサンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。しかし、職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる(松本清張『日本の黒い霧』より)。
自由権をめぐる問題
1950年に電気通信省、旭硝子、川崎製鉄で追放解雇・免職にされた3人が、思想・良心の自由に対する侵害であるとして2004年に人権救済を申し立てた事をきっかけに、2008年現在、全国で70人により同様の申し立てがされている(3人については2008年、日本弁護士連合会より救済勧告)。
参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B8
『詳説 日本史』山川出版社 『日本史用語集』山川出版社