レバノン侵攻
出典: Jinkawiki
レバノン侵攻 元々レバノンは、アラブでありながら、キリスト教徒とムスリムの両派の微妙なバランスの上にあった国家であった。ムスリムは、スンニ派、シーア派、ドゥルーズ派に分かれていた。さらにパレスチナ解放機構〔PLO〕も、レバノンに拠点を置いていた。また、キリスト教徒もいくつかの派閥に分かれていた。レバノンはかつて、中東における安定の聖域、真の多元主義と多様性を持つ唯一の地域と見なされていたが、ひとたび内戦に突入すると、外部勢力に干渉の機会を提供する地域になっていった。レバノン北部では、シリアが自らの秩序を押しつけるようになり、1978年にはイスラエルがリタニ川までの南部レバノンに進出した。1982年6月にイスラエルの国防相アリエル・シャロンは、さらに進むことを決めた。当初、レバノン領からの攻撃に対して北部イスラエルを保護するために、25マイルまでしかレバノン内部に入らないと、されていたが、実際にはイスラエル軍はベイルートを10週間にわたって包囲した。この包囲によって、PLOはベイルートから撤退した。レバノンのキリスト教指導者バシル・ジェマイエルはイスラエルとの平和条約を結んだが、南部の緩衝地帯は2000年まで占領し続けた。だが、2007年にイスラエルと、レバノンの政治的な準軍事組織ヒズボラ(シリアとイランに支援された「神の党」)とは、レバノンで再び交戦した。これは第7次戦争である。そして、2008年には、イスラエルはガザで、別の原理主義的なパレスチナ組織ハマス(「イスラーム抵抗運動」)と交戦に及んだ。これは第8次戦争である。
中東戦争の特徴 エスニシティ、宗教、ナショナリズムのからむ地域紛争は、苦渋に満ちた、解決のきわめて困難な紛争になりやすいということである。〔両陣営の〕強硬派をますます強硬にさせる。アラブ側が、和を講ずるのに消極的だったのは、彼らがイスラエルを正統化することを望まなかったからである。彼らの拒否が、イスラエル内でアラブとの和を結ぶことを欲しなかった勢力の国内的地位を強めるので、妥協を欲する穏健派を困難に陥らせたのである。1973年と1977年にサダドは、あえて危険を冒した。そして、そのツケは自らの命を贖うことになってしまった。10年後にイスラエルのイツハク・ラビン首相も、平和のために危険を冒し、ユダヤ人の宗教的過激派に暗殺された。このような極端が支配する世界では、信用と妥協は困難である。とりわけ、領土のような私的財産をめぐる紛争の場合はそうである。排他性と競合性の問題が、あらためて想起される。
中東問題の解決 中東問題は、宗教、民族、文化、領土、歴史などが様々に複雑に絡み合い現在に至る。すべての問題を一斉に解決するのは困難であるが、問題を一つ一つ解決していけば複雑に絡み合った問題も解決できると考える。これまでは、兵器を使い、罪無き人々を多く巻き込む形となっていたが、これからは代表による対話を中心に互いに譲歩しあい相手を尊重していくべきである。国家より高次にある権力が存在しない現在、お互いがどこかで踏ん切りをつけなければこの中東問題の解決はできない。
参考文献:『国際紛争 理論と歴史 ジョセフ・S.ナイ・ジュニア/著 デイヴィッド・A.ウェルチ/著 田中明彦/訳 村田晃嗣/訳 有斐閣 2013年04月 』:「http://ippjapan.org/archives/584 」2015.7.31