レフ・セミョーノビッチ・ヴィゴツキー

出典: Jinkawiki

 レフ・セミョーノビッチ・ヴィゴツキー(1896~1934)は、現在の白ロシア共和国の都市オルシャで生まれた。障害児教育において新しい考え方を提唱した人物である。早熟で非凡な才能の持ち主であり、後に「心理学におけるモーツァルト」トも称されたヴィゴツキーが、心理学の研究に携わったのは、大学卒業の年から数えたとしてもわずか17年に過ぎないが、この短期間に彼は驚くほど生産的に数々の後世に残る優れた業績を多方面にわたって生み出した。そして、モスクワに出てきて本格的に心理学の研究を始めたそのときから晩年に至るまで、終始一貫して熱心に取り組んだ研究分野が「障害児の発達と教育の専門的研究」なのである。

ヴィゴツキーは、障害の構造を一次的障害と二次的障害とにわけ、教育の可能性が最も大きいのは一次的障害への対策ではなくて、二次的障害への対策であることを強調した。それまでの障害児教育は、目が見えない、耳が聞こえないといった障害を補償するための感覚運動的訓練や教育にもっぱら力を入れていて、より高次の精神活動の教育を後回しにしていたものを逆転させたのである。

目次

文学青年としての出発

ヴィゴツキーが幼年・少年時代をどのような家庭環境の中で育ったのかは明らかではないが、後に、貴族の子弟が通うギムナジヤに入ることから考えて、おそらく経済的には恵まれた家庭で育ったと推定できる。彼が1905年頃にゴメル・ギムナジヤへ入学するが、その時期は日露戦争、ロシア第一革命と国外的にも国内的にも緊張の高まった時期である。1905年1月の「血の日曜日」事件以来、革命運動が盛んになり、各地において工場労働者のみならず、教師、学生などもストライキをもって革命に参加した。当時、ゴメル・ギムナジヤにおいてもストライキ委員会が組織され、「集会の自由」「教会参拝の非義務化」などの教育要求を掲げ、果敢な闘争を展開している。

 この第一革命も失敗に終わり、それに続く反動的な政情の中で、ヴィゴツキーは1913年、ゴメル・ギムナジヤを卒業した。同年モスクワ大学法学部に入学し、同時にシャニャフスキー人民大学歴史=哲学部で学んでいる。在学中は文学に非常に興味をもっており、1915年の下書と1916年の原稿『シェクスピアのデンマークの王子ハムレットの悲劇』があることもそれを証拠付けている。この文学への関心は強く、1929年の暮れから翌年の初めにソビエトを訪れ、実際にヴィゴツキーに会った森徳治は、ヴィゴツキーの思い出を次のように記している。

 「ヴィゴツキーは、大の演劇愛好家であったらしく、私に会った最初の言葉は、『私は今世界の三大名優を知っている。ロシアのスタニスラフスキー、ドイツのモイシ、それから日本の左団次である。私は日本の歌舞伎がモスクワで上演された一週間、毎日欠かさずに観劇した。本当に素晴らしかった』という挨拶であった。」

心理学者としてのヴィゴツキー

 ヴィゴツキーは高次心理活動の研究のために小さな実験室をつくり、そこでの研究をもとに、1922年の第一回ソビエト心理学者大会において研究報告を行なった。この報告が心理学者一般の関心をひき、ヴィゴツキーは1924年、コルニーロフ教授の指導するモスクワ心理学研究所に招かれた。若き心理学者ヴィゴツキーがこの心理学研究所に入所したということは、単に心理学的研究が他よりも際立っていたからという理由だけではない。それは、科学としてのソビエト心理学の方向を定める上での決定的な命題、つまりマルクス主義を基礎とする心理学の確立という命題を、その研究の中に含んでいたからである。

 精神神経学大会での『反射学的、心理学的研究の方法論』という発表が注目を引き、研究所の研究生として招かれたのであるが、初歩の研究生としてよりは指導的な独立した研究者であることが明らかになった。1926年には、ヴィゴツキーが自ら創設した心理学研究室での実験を基礎に、『教育心理学』という著作を出版した。大部分の権威ある心理学者たちがイ・ペ・パブロフ(1849~1936)の条件反射学説と心理学との間に何ら関係を見出せないでいるときに、この著者においてすでにヴィゴツキーは、条件反射に関する学説が新しい心理学を構成するための基礎でなければならないことを提起している。

 『教育心理学』によって、ヴィゴツキーは心理学者として重要な列に加わるようになった。1929年には、高等教育機関と研究機関の改革問題審議のために教育人民委員部に設置された国家学術会議の委員として、また、雑誌『心理学』『小児医学』等の編集委員として、そして多くの大会、代表者会議、協議会、委員会の欠くべからざる参加者として、一連の研究機関の活動の方向を決定するのに多くの貢献を成したといわれる。

欠陥学者としてのヴィゴツキー

 エリ・エス・ヴィゴツキーが欠陥学の分野に初めて登場するのは、1924年のことである。直接的には、1924年1月3日~10日に行なわれた「第二回全ロシア精神神経学大会」での彼の発表が、欠陥学の分野においても注目を引いたと考えられる。革命後、欠陥学の分野でも社会主義社会建設に合致した科学の創造ということが大きな課題であった。しかし、1920年の「子どもの欠陥性、浮浪性、犯罪性との闘いのための第一回活動家大会」、1921年の「子どもの欠陥性との闘いのための全ロシア代表者会議」などにおいても、その問題の解決への糸口は見出せなかった。

 そのような状況の下、ヴィゴツキーは1924年、教育人民委員部未成年者社会的権利保護部に招かれ、身体欠陥児教育課に関係するようになった。1923年後半頃より、子どもの浮浪、障害の問題に携わっている関係者の間で、障害児の保護、教育の状況が著しく貧困であるということが明らかになってきた。それを解決すべく、1924年の暮れに、「未成年者の社会的権利保護第二回大会」が予定された。ヴィゴツキーは大会の準備のために論文と資料集『盲児、聾啞児、知能遅滞児教育の諸問題』の編集にあたった。そこでヴィゴツキーは、革命後の特殊教育の分野において、いまだ障害児の教育に対する社会主義的アプローチが試みられていないことを指摘している。つまり、障害児の問題を主に身体的欠陥、心理的欠陥として考え、社会的問題として考えていないということを指摘しているのである。

 また、ヴィゴツキーは、この「未成年者の社会的権利保護第二回大会」において、『身体的欠陥児の教育原理』という題で発表を行なった。彼が示した一連の論文の中での主張は、彼自身の障害児観を初めて体系立てて示したものであり、また、その後の欠陥学の進むべき筋道を決定した極めて重要なものであった。その主な主張は次のようなものであった。

(1) 障害児の教育を狭い生物学的アプローチ(感覚訓練、精神整形学など)に求めるのではなく、社会的補償に基盤を置く社会的教育に求めるべきである。

(2) 身体的欠陥児と知能遅滞児の特殊教育学を社会的教育の一般原理に結びつけること。

(3) 特殊学校の生徒を青少年の共産主義運動に参加させたり、特殊学校と普通学校の綿密な接触を確立させること。

(4) 手工業的=家内工業的労働形態から、総合技術教育的知識の一般的基礎も社会的生活との有機的な結合も保障する、高次な工業形態へ移行させること。

ヴィゴツキーの障害児教育

 ヴィゴツキーは、両者の発達の共通性を条件反応の形成のメカニズムということによって説明している。発達の全てが共通であるというのではなく、形成のメカニズムが共通であるというところが、我々にとっては重要である。障害児にも健常児と同じ筋道で発達するとよく言われる。しかし、障害児が健常児と同じ筋道で発達するということと、障害児個人がどう発達するかということとは全く異なった問題である。前者は基本的な原則のことであり、後者は極めて現実的で、個別的な問題である。発達の道筋が基本的に同じであるからといって、同じ環境で、同じ方法で、同じ働きかけによって、健常児も障害児も同じように発達するとは限らない。障害児の持っている障害の程度、それまで歩んできた発達、その他によって、極めて様々になることは誰しも容易に理解できることである。それでも、健常児の発達は、障害児の発達の道筋を見通す上で極めて重要であり、健常児の発達から出来るだけ多くのことを学んでいく必要があるだろう。

 ヴィゴツキーの「形成のメカニズム」という観点からすれば、指導者側が予測できないところでメカニズムが形成される場合がある。例えば、障害児同士の交わり、発達の異なった集団の中、健常児との交わり、その他において。このようなことを重視したがゆえに、ヴィゴツキーはすでに50年も前に、障害児学校の閉鎖性を指摘し、一般学校との交流、一般教育学と特殊教育学との結合を提唱したのである。

 しかしそれと同時に、障害を負っているがゆえに、一般的な条件の中では形成のメカニズムが作動しないまま、障害が新たな障害(二次的障害)を生じさせていることが少なくない。障害が重度になればなるほど、子どもの能動性は低くなり、刺激の選択性もより狭められる。ヴィゴツキーは、教育の可能性は「最近接発達の領域」によって決定されるといっている。障害の重度化に伴い、この領域が極めて限定されるわけである。けれども、我々が教育の可能性を期待できるのはこの領域の範囲内であり、形成のメカニズムが作動するのも、この最近接発達の領域においてである。

 実際の指導においては、子どもが自分ではできないが、他人の助けを借りてできるとか、さらには、指導者の働きかけに子どもが「のる」とか、子どもの表情が豊かになるということが、大きなモメントとなる。それを手がかりに子どもの新しい活動を引き出し、組織することに、主要な注意が向けられねばならないだろう。

一次的障害と二次的障害

 ヴィゴツキーの障害観を示すもののうちで最も特徴的なものは、一次的障害と二次的障害という概念である。ヴィゴツキーは器質的障害とそれによって生じる障害(社会的障害)を区別して考えようとした。彼は初期の論文においては、前者を欠陥といい、後者を欠陥性とも記している。本質的には二次的障害は除去できる問題として考えている。このように考える場合、表面的には一次的障害と二次的障害が複雑に錯綜しているため、明確にできない場合が多い。それらを混同せずに、問題の本質を正確に捉えなければならないだろう。

 器質的障害である盲あるいは聾であるならば、その結果として生じるものが二次的であり、それらを克服するために点字や口話あるいは指文字を使用して軽減していくというのは比較的理解しやすい。これが知能遅滞などであると理解しにくい。ヴィゴツキーはそのために、発達における文化的過程と生物学的過程を区別している。ヴィゴツキーによれば、記憶、思考、性格などの高次な形態のものは、文化的発達の産物であって、生物的成熟の産物ではない。生物学的発達の過程と文化的発達の過程の交錯の様々な形態が、行動の発達における各年齢段階の特質、子どもの発達の独自なタイプを決定する。行動の高次の形態の発達は、生物学的成熟の一定の水準、一定の構造を自分の前提として要求し、この前提の発達がかけていたり不十分であると、活動性の二つの体系の不適当、不完全な交錯、混乱あるいは一つの形態の地すべりのようなものが発生する。生物学的(器質的)障害が直接、発達全ての障害に導くのではなく、文化的過程との関連で生ずると考えている。したがってここから、知能遅滞児においても、文化的発達の可能性があることが示唆される。しかし、生物学的発達不善によって特徴付けられる、新しいものに対する感受性の低さや活動性の不十分さによって制約されもする。つまりこれは、障害児が無限の発達を遂げるというのではなく、発達の限界が未知であるということを意味するものであろう。

 一次的障害と二次的障害を区別することによって、ヴィゴツキーは、徴候が一次的障害から隔たっていればいるほど教育的働きかけを受けやすく、除かれやすいと考えた。子どもの発達の過程で二次的な形成として生ずるものは、原則的には予防することができ、教育的に除かれるというのである。

参考文献

ヴィゴツキー著 大井清吉/菅田洋一郎訳 『ヴィゴツキー障害児発達論集』 ぶどう社 1982年

ヴィゴツキー著 柴田義松/宮坂琇子訳 『ヴィゴツキー障害児発達・教育論集』 新読書社 2006年


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