ワーテルローの戦い
出典: Jinkawiki
1815年6月18日、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍とナポレオン1世率いるフランス軍の戦い。ナポレオン最後の戦いとして知られる。
戦争内容
6月18日ワーテルローでフランス軍とイギリス軍が戦闘を開始する。フランス軍7万4000、イギリス軍は6万8000。しかしイギリス軍はモン・サン・ジャンの高台を占領しており、戦場に点在するウグモンやパプロット、ラ・エ・サントなどの城館に兵を配備していた。また前日までの雨の影響でフランス軍は大砲をうまく輸送することができず攻撃開始が遅れた。
11時30分、攻撃が開始された。フランス軍の砲兵隊がイギリス軍の右翼に向かって砲撃を浴びせる。同時にグルーシーに戦場にもどってくるよう伝令を出した。しかしスルト元帥は1人の伝令しか出さず、伝令に出た将校は途中で落馬して重傷を負った。ベルティエなら1ダースの伝令を出したといわれている。
ワーテルロー方面からの砲声を聞いたグルーシーは援軍に駆け付けるか、プロイセン軍の追撃を続行するかで悩む。しかしグルーシーは最終的にナポレオンの命令を遵守してワーテルローとは逆方面のナムールへプロイセン軍の追撃に向かった。それとは対照的に敗走したはずのプロイセン軍はグナイゼナウに率いられてワーテルローへ向かっていた。
正午になってジェローム・ボナパルトの指揮する歩兵部隊をウグモンの館に向けて攻撃させた。兵の指揮に関しては素人であったジェロームはウグモンの周辺の占領だけを命じられていたが、あっさりと任務を達成したことに気を良くして城館に立てこもるイギリス軍に攻撃を仕掛け、イギリス軍のライフル部隊の反撃にあって大損害を出してしまいます。ジェロームの攻撃を陽動程度にしか思っていなかったナポレオンは弟のこの失態に激怒した。それに、この攻撃によってウェリントンは右翼に援軍を投入するはずだったが、ウェリントンは動かなかった。 その陽動攻撃の間にもフランス軍は得意の砲撃をイギリス軍本隊に浴びせ続けるが、イギリス軍はモン・サン・ジャンの丘に隠れており、砲撃は功を奏さない。おまけにぬかるみのせいで最大の攻撃力を誇る榴弾(時限式炸裂砲弾)もたいした効果をあげない。
13時ごろ、北東の方角にプロイセン軍の前衛部隊が目視された。しかし、ナポレオンはグルーシーの軍団であると将兵を励まし、イギリス軍への攻撃を続けた。ナポレオンは再び伝令をグルーシーのもとに派遣する。
13時30分ごろにエルロン将軍が歩兵軍団を率いて攻撃に向かう。大隊ごとに3列横隊となり、正面に200名、全体に27列、5700名の大密集陣形だった。ナポレオンは援兵として胸甲騎兵軍団を投入する。ウェリントンも重竜騎兵2個旅団を派遣してフランス軍胸甲騎兵を敗走させる。勢いに乗ったイギリス軍の竜騎兵軍団はフランス軍の砲兵陣地に殺到したが、砲兵隊の十字砲火とフランス軍槍騎兵の突撃によって蹴散らされた。
その間にエルロン将軍はイギリス軍の前衛を突破、ハノーヴァー師団とベルギー師団を粉砕する。しかしピクトン将軍が増援として駆け付け、激戦を繰り広げましたがエルロンは撃退された。しかしピクトン将軍も戦死した。
総攻撃に失敗したナポレオンは手詰まりとなったが、戦線は膠着状態となった。決戦を急ぎたいナポレオンは不幸にも持病の頭痛が起こり戦線を離れる。よってネイ元帥が指揮を引き継いだ。
15時30分ごろ、ウェリントン将軍はフランス軍の砲撃から兵を守るためにモン・サン・ジャン丘の裏側に全軍を後退させる。ネイ元帥はこれを見て、イギリス軍が退却したものと思い全騎兵を集結させた。そして後退したイギリス軍に向かって歩兵も砲兵の支援もなしに5000の騎兵を一斉に突撃させた。これにはナポレオンもウェリントンも仰天した。ウェリントンは歩兵に13個の方陣を組ませて防御する。戦線に復帰したナポレオンは唖然としながらもただちに増援を投入した。
歩兵、砲兵の支援を受けたフランス軍の騎兵突撃はイギリス軍の方陣を次々と粉砕して歩兵を蹴散らした。しかしフランス騎兵の損害も凄まじいものとなっていた。ネイ元帥の攻撃に呼応して再びエルロンの師団がイギリス軍左翼より攻撃を開始する。ネイ元帥はナポレオンに無敵の近衛軍団の投入を要請するが、ナポレオンはこれを拒否する。ネイ元帥の攻撃は失敗した上に、ナポレオンは勝機を逃した。 16時30分ごろプロイセン軍の前衛ビューロー軍団3万がワーテルローの戦場に到着してフランス軍右翼を圧迫した。ナポレオンは予備であるローバウ将軍の軍団1万を派遣する。しかしローバウ軍もプロイセン軍本隊が到着するとあっという間に蹴散らされた。
17時ごろナポレオンはいよいよ重い腰をあげ、無敵近衛軍団の投入を決める。近衛軍団は悠然と隊伍を組んでイギリス軍にむかって行進を始めた。ウェリントン将軍は歩兵を2列横隊に展開してフランス軍を待ち構えた。
近衛部隊が丘のふもとから頂上に向かって一気に駆け上がった瞬間、イギリス軍歩兵は至近距離から近衛部隊に銃弾を浴びた。これに近衛軍団もたまらず敗走を始めた。近衛軍団の敗北はフランス軍に動揺を与えた。イギリス軍は総攻撃に出た。プロイセン軍もそれに呼応してフランス軍に追撃をかける。
21時までにフランス軍の組織的抵抗は完全に無くなった。古参中の古参の老近衛部隊は最後まで戦場に踏みとどまり味方の退却を援護した。遅れてやってきたグルーシーは敗残部隊をまとめあげることに成功して戦場から離脱した。ナポレオンも敗走をする兵をまとめあげて反撃にかかろうとしたが、プロイセン軍の追撃が凄まじくパリに逃げ帰るしかなかった。
この戦いでフランス軍は2万5000の兵を失い、1万の捕虜を出した。同盟軍も2万の戦死者を出す。
6月21日にナポレオンはパリに帰還した。カルノーとシェイエス、パリの民衆はナポレオン政権と戦争の継続を支持するが、議会はナポレオンに退位を求める。6月22日ナポレオンは退位し、わずか3カ月(100日)の皇位となった。これがいわゆる百日天下である。
M.S