ヴェニスの商人2
出典: Jinkawiki
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概要
『ヴェニスの商人』(The Merchant of Venice)はウィリアム・シェイクスピアの喜劇用の戯曲である。作品の執筆・上演は1596年である。
あらすじ
裕福な貴婦人ポーシャの元に、名だたる求婚者たちがやってくる。彼らと競い合うためにはお金が必要だと考えたバサーニオは、友人アントニオからお金を借りようとするが、アントニオの財産はすべて海に出ていた。そこでアントニオはユダヤ人高利貸しのシャイロックから、自身の肉1ポンドを担保に借金をする。しかし、商船が難破しアントニオは返済できず、シャイロックから肉1ポンドを要求される。舞台は法廷に移り、法学博士に扮したポーシャがアントニオの窮地を救い、シャイロックはキリスト教徒に改宗させられる。
ユダヤ人vsキリスト教徒
ヴェニスの商人にはユダヤ人とキリスト教徒の対立が描かれている。ユダヤ人を差別した表現があるため、ユダヤ人蔑視のある作品と捉える見方がある一方、哀れなユダヤ人シャイロックを通してユダヤ人差別を訴える作品とする見方もできる。
Tarry a little; there is something else. This bond does give thee here no drop of blood; The words expressly are 'a pound of flesh': Take then your bond, take thou your pound of flesh; But, in the cutting it, if you do shed one drop of Christian blood, your lands and goods are, by the laws of Venice, confiscate unto the state of Venice.
訳:(アントニオの肉を切り取ろうとするシャイロックを制して)待て、あわてるな。まだ言うべきことがある。この証文は血を一滴もおまえに与えていない。「肉1ポンド」とのみ明記されている。ゆえに証文通りに肉を1ポンド取るがいい。だが、切り取るときにキリスト教徒の血を一滴でも流せば、おまえの土地・財産は全てヴェニスの法律に従い国庫に没収されるのだ。
ここでは、「アントニオの血」でも「相手の血」でもなく、わざわざ「キリスト教徒の血を一滴でも流せば」と言っている。ヴェニスの商人では個人名でなくChristian(キリスト教徒)とJew(ユダヤ人に対する蔑称)を使う場面が多々ある。明らかに、キリスト教とユダヤ人の対立が表現されている。
当時、ユダヤ人がキリスト教で禁止されていた金融業や商業などを発達させたこともあり、ユダヤ教徒への蔑視が強まっていた。反ユダヤ主義者の中には、ユダヤ教はイエス・キリスト殺害の張本人だとする思想もある。一方、ユダヤ人は他の宗教を異教徒とし迫害するといった考えは持たない。
ユダヤ人のキリスト教徒批判
以下の台詞は、ユダヤ人シャイロックがユダヤ人差別をするキリスト教徒を批判する、有名な台詞である。ユダヤ人もキリスト教徒と同じ人間であり、復讐心も持っていて、その復讐心はキリスト教徒から教わったものだと言っている。
「(肉1ポンドは)魚を釣る餌ぐらいにはなる。腹の足しにはならずとも、腹いせの足しにはなるわ。やつめ、わしにさんざ恥をかかせやがった。大枚の儲けを邪魔しやがって、わしが損をしたといっては嘲笑い、得したといっては嘲り、われらユダヤの民を嘲弄し、わしの商売を妨げ、わしの友情には水を差し、仇の憎しみは煽りたて―何のためだ?ただ、わしがユダヤ人だからという、ただそれだけのため。ユダヤ人には、目がないのか。四肢五体も、感覚も、感情も、激情もないというのか。同じ物を食い、同じ刃物で傷つき、同じ病いで苦しみ、同じ手当てで治り、夏は暑いと感じず、冬も寒さを覚えないとでもいうのか。何もかにも、キリスト教徒とそっくり同じではないか。針で突けば、わしらだって血は出るぞ。くすぐられれば、笑いもする。毒を盛られれば、死ぬではないか。それならば、屈辱を加えられれば、どうして復讐をしないでいられる。何であろうと、わしらがあんたらと同じであるなら、復讐することだって違いはない。もし、ユダヤ人がキリスト教徒に辱めを加えたら、キリスト教徒は何をする?右の頬を打たれたら、黙って左の頬を出したりするか?いいや、復讐だ。もし、キリスト教徒がユダヤ人に辱めを加えたら、キリスト教徒は何をする?キリスト教徒の忍従の例に倣って、ただ黙って耐え忍ぶのか?いいや、復讐だ。悪いか?だが、この悪いことを教えてくれたなぁ、他ならぬ、あんたらじゃねえか。わしはただ、その教えを実行するだけ。見ておるがいい。必ず教えられた以上に、立派にやってのけてやるからな。」
キリスト教徒のユダヤ人差別
キリスト教徒であるアントニオの台詞から、キリスト教徒のユダヤ人に対する偏見の根深さが読み取れる。
「・・・相手はユダヤ人、議論などして何になる。それくらいなら渚に立ち、満ちてくる潮にむかって、引いてくれと頼むほうがまだましだろう。狼にむかって、なぜ子羊を取って食うのか、なぜ母親の羊を嘆かせるのか、問いつめるほうがまだましのはず。・・・あのユダヤ人の固い心を和らげようとするくらいなら、どんな固いものでも打ち砕くことができよう。・・・」
解釈
ユダヤ人シャイロックの台詞から、異教徒には厳しいキリスト教の偽善を痛烈に批判していることがわかる。しかし、欧米人たちはキリスト教徒の非道は棚に上げて、シャイロックの台詞を vindictive Jew(復讐好きなユダヤ人)のステレオタイプを明確に提示した名言と見なしている。
作品の終盤では、ポーシャが血を流さずに肉1ポンドを切り取るように命じており、それが正義だとポーシャは主張しているが、詐欺的だとの見方もある。始終キリスト教の優越性をたたえている戯曲ともいえる。
娘は駆け落ちし、財産は半分没収され、さらにキリスト教に改宗させられてしまうシャイロックを気の毒とする声もある。シャイロックを弱い立場の人間と解釈すると、迫害されるユダヤ人という姿が浮かび上がり作品の印象はかなり変わる。
映画
映画「ヴェニスの商人」(マイケル・ラドフォード監督、アル・パチーノ出演)は2004年に上映され、2005年10月29日に日本で公開された。
シャイロックを単なる冷酷な高利貸しとして描かず、キリスト教徒たちに差別され、金利をとることを批判された上、もう一つの悲劇に見舞われたためにキリスト教徒の貿易商アントニオに恨みを抱くという流れになっており、シャイロックの非道さにも憐れみを感じるような筋書きになっている。狡猾で憎むべきシャイロックというより、孤独で哀れむべき人物像として解釈されることをねらいとしているのならば、表現として成功しているといえる。時代の流れに伴う価値観の変化に合わせて、作品の表現方法や解釈が変化していると考えられる。
<参考文献>
・安西徹雄訳 シェイクスピア『ヴェニスの商人』光文社(2007年)