一休
出典: Jinkawiki
一休のとんちばなしの数々は、彼が死んで180年もたってから、はじめて本にまとめられている。それ以来、権力者にこびたり、へつらったりしない一休の姿を、庶民は常に愛しつづけてきた。そして今もなお、その人気はおとろえていない。
一休は、6歳で京都の安国寺という禅寺の小坊主となる。それ以前は、母と2人で京都の嵯峨の里というところで、ひっそりと暮らしていた。名前を千菊丸といい、父は後小松天皇だといわれている。そのころの禅宗は、室町幕府の保護を受けて、宗教的な厳しさを失い、多くの僧が権力をかさにきて堕落していた。しかし、本当の禅の修業をしようとする僧もいた。大徳寺を中心とした人々で、大徳寺派と呼ばれていた。
安国寺で僧としての勉強を始めた一休は、そのあと京都の寺を転々としていった。以前から禅宗の腐敗をなげいていた彼は17歳で大徳寺派の西金寺に入り、謙翁おしょうの弟子となり、4年後に「宗純」という名をもらう。かざり気のない真っすぐな気持ちで生きるようにとの名である。それからまもなく、謙翁が死ぬと、彼は悲しみのあまり琵琶湖に身を投げようとした。そのとき、母の面影があらわれて、ついに死を思いとどまる。
謙翁が死んだ翌年、近江(滋賀県)の琵琶湖のほとりの堅田に住む華そうというえらい僧のところにいき、弟子にしてほしいと、門の前で何日も座禅を続け、ようやく入門を許される。入門から3年たって「一休」という号をもらう。
彼は27歳のときに、琵琶湖に小船を浮かべて座禅を組んでいた。いつしか夜になり、静けさをやぶってカラスが鳴いた。カラスの声は、一休の心の迷いを吹き飛ばした。「いま、禅の世界を正しく導くには、カラスのように思いきって鳴くことが大切だ・・・」と悟る。
そこで人々とのふれあいを求めて旅に出る。一休は禅僧として型破りな行動をしながら、禅僧や政治のあり方を民衆の1人として見つめ、そのあやまりを正していった。一休は88歳で死んだが、一生、自分の寺というものを持たなかった。
参考文献
『小学歴史人物』 赤尾文夫 旺文社
『歴史の精解と資料』 藤井譲治 文英堂